(3)
はじめに第一類巫術の変遷から見ていこう。
舞いの雨乞いは商代には慣例となっていた。殷墟の卜辞に大量に「乎舞、有従雨」「今日奏舞、有従雨」といった記載が見つかっている。「乎(呼)舞」は群衆を招集した跳舞であり、「奏舞」は奏楽をしながらの舞いである。「従(縦)雨」は大雨を指す。占い師は、跳舞によって大雨のことを神に聞いて啓示を得た。舞踏雨乞い法は当時盛んだった。そしてこの方法はすでに長い間流行していた。
占い師はこの方法が霊験あらたかであるかどうかに注意を払っていた。しかし霊験がなかったとしても、信仰を捨てるということはなかった。つねにこの舞踏が雨を招くかどうかが問題だった。求雨舞踏は一般に宗廟や神祇の前で行われた。もっともよく見られたのは「舞河」や「舞岳」だった。おそらく殷人は河神や岳神が旱災を引き起こす主要神霊とみなしたのだろう。それゆえ舞踏によって彼らを感化することが重視されたのだろう。
商代の雨乞いの舞は一種の集団舞踏活動だった。卜辞のなかに「貞、我舞、雨」という記載があるが、その中の「我」は誰かを指すのでなく、「我々」か、商朝の町を指している。商代には舞臣という専門職があり、舞踏の按排の責任を持つ「多老」だった。干ばつになると彼らは「呼ばれ」、祈雨をすることになる。重要な祈雨活動になると、商王は自ら載歌載舞に参加した。卜辞の中にはつぎのような一節がある。「貞、王勿舞」「王舞」「王舞、允雨」。最後の一文は注目したい。すなわち商王が自ら舞踏に参加し、それによって広範囲の甘霖(恵みの雨)が降ったことを報告しているのだ。
甲骨文中の□(雨冠に舞)は、求雨の舞を一般的な舞踏と区別するために作られた字である。「于翌日丙□、有大雨」「乎□、無大雨」これらから、□と解は同じ音だろう。雨冠を加えることで、雨乞いの舞であることを示しているようだ。