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 殷代の「舞法」は変遷して周代の雩礼(うれい)となった。これは規模の大きな求雨活動である。周代の雩祭のなかで雨を祈る舞踏の組織の主役は巫師だった。『周礼』「司巫」に言う、「もし国が旱(ひでり)であれば、帥巫(すいふ)が雩を舞う」。この書の「女巫」に言う、「旱暵(雨が降らず乾燥して暑いとき)すなわち舞雩(雨乞いの礼)」。

 『周礼』はまた「舞師」という官員について述べている。その職責の一つは一般大衆に雨乞い舞を含む各種舞法を伝授することだった。大旱のときは人々を率いて女巫といっしょに舞った。雩祭に必要なものは、「稲人」という官員を通して集められた。水稲などの作物を植え、育てるのを管轄する「稲人」は雨をもっとも必要とする人物であり、雩祭からもっとも利益を得る立場にあった。


 周代、祈雨の舞は「皇舞」と呼ばれた。舞踏する者はかならず頭に鳥の羽根を挿さなければならなかった。これは鷸(しぎ)の羽根である。伝説によればシギは「知天将雨」、天が雨を降らせるのを知っている。秦代以前、天文官は習慣として頭に鷸冠を挿し、目印とした。雨乞いの者は鷸冠を挿して舞った。この鳥の羽根が上天の霊力に感応すると信じられていたのである。


 雨乞いの者は狂舞するとともに、呼号(泣き叫ぶ)し、悲嘆(悲しみ嘆く)し、痛哭(激しく泣く)し、祷祝(祈り祝い願う)する。『爾雅』「釈訓」に言う、「舞号(舞い叫ぶ)、雩(う)なり」。雩祭の説明中、「有舞有号(舞い、叫びあり)」。

 雩(う)と吁(う)は同音である。雩礼中、総じて「吁嗟(うさ)」という悲痛の叫び声を伴う。それゆえ鄭玄らはつぎのように解釈する。「雩、吁嗟、雨乞いの祭なり」「雩の祭、舞者は吁嗟にして雨を求める」。

 『周礼』によれば「邦(くに)の大災」に遭えば、女巫に「哭いて歌って、(雨を)求めてもらう」。大旱に遭えば当然のことで、例外はありえない。この「歌」とは、祷祝の辞を歌うという意味である。現存する周代の最長の祈雨祷辞は『詩経』「雲漢」である。

 周宣王は即位後六年連続して大旱に遭い、大臣仍叔(じょうしゅく)が宣王に代わって祷辞を書いた。詩の中で言う、旱魃(干ばつ)が発生し、周人はほとんど死んでしまった。幸運にも生き残っている者は、生命の限界が来てしまったことを感じている。国家綱紀は無きに等しく、生活秩序は乱れまくっている。周王は心配で気が気でなく、群公先正[上公や前代の君長、昊天上帝(こうてんじょうてい)]に希求し、周人が神を祭り、勤勉であるさまを見て、すみやかに旱災を終わらせることを願う。