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 周代の雩祭(うさい)には二種類あった。一つは不定期におこなわれた「旱雩」で、夏暦(旧暦)の五、六、七月に実施された。旱(ひでり)があれば祭があり、旱がなければ祭はなかった。もう一つは定期的におこなわれた「正雩」。旱(ひでり)がある、ない、関係なく夏暦四月に一度だけおこなわれた。

 『左伝』「桓公五年」に「竜が見えれば雩」すなわち正雩とある。これは旱災を予防するという意味合いがある。「四月の黄昏、竜星体が見えたなら、万物のはじめであり、雨の期待が大きくなる。ゆえに雩を祭り、雨を求める。正雩儀式は荘厳なので、大雩と呼ばれることもある。大雩礼では歌舞だけでなく、楽奏もたっぷりと用いられる。すなわち舞者の伴奏に各種楽器が用いられる。

 こうして上帝を祭るだけでなく、山川百源(すべての源)、先王、先公、かつて功を立てた古代の名臣などを祭った。


 商代の舞法と周代の雩祭について語ると、討論すべき問題が出てくる。すなわち商周の時代、求雨儀式で竜形の道具がすでに使われていたかどうかだ。裘錫圭(きゅうしけい)[1935~ 古文字学者]は「竜田有雨」などの竜や、雨と関連した卜辞、それとつながる社会習俗などを根拠に、商代にはすでに雨乞いの竜の造形を使った儀法(礼儀法度)があったと認識している。

 竜崇拝は新石器時代にはすでに流行していた。遼寧省西部の紅山文化遺跡から発見された玉竜、濮陽西水坡から発見された蛙塑竜、陶寺文化遺跡から発見された朱絵竜などがそうだ。

伝説によれば太たいこう)氏は竜名をもって官とした。[太皞は伏羲氏と同一視される。伏羲は竜の姿で描かれる]。

舜の時代、董父は竜を訓練し、竜を養った。ゆえに拳竜氏と称す。

上帝は夏代末の帝王孔甲に四条(匹)の「乗竜」を賜った。黄河、漢水にそれぞれ一対ずつである。帝王孔甲は劉累に竜の訓練をさせた。ならびに「御竜」という氏号を賜った。これらの神話は考古学的発見とも符合した。

『易経』乾卦の爻(こう)辞は「潜竜勿用」「見竜在田」「飛竜在天」「亢竜有悔」などに言及する。

 『左伝』「昭公二十九年」は春秋時代の人の話を記録する。もし朝夕に(日常的に)真竜を見ることができなかったら、どうやって竜を細かく描写することができただろうか。実際、「拳竜」「御竜」は、竜形の道具を作るのに長じていた人々ではなかろうか。彼らは代々竜を造る仕事に携わっていたが、それを神話によって表現していた。彼らが竜を生き生きと描くことができたのは、竜を特別に崇拝し、竜形の道具とつねに接触していたからだろう。

 秦代以前の人は竜を「水物」と認識していた。それは虫類の中でもっとも智慧のあるものだった。河(河南と河北)や漢中のどちらにも竜の活動が見られた。殷墟の卜辞に書かれる「舞河」求雨もまた、竜崇拝と関係があった。

 『淮南子』「地形訓」に言う、「土竜致雨」。高誘の注に言う、「湯は旱(ひでり)に遭い、竜をかたどった土竜を作る。雲は竜に従うので、雨もやってくる」。

 商代および商代以前の宗教の背景を見るに、高誘の説にも納得がいく。後世に伝わる文献中には、秦代以前の雩礼中の竜形道具や秦代以前に鋂号の作用を重視したという言及は少ない。土竜致雨法を使用したという記述もきわめて少ない。