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 董仲舒は強調する、雨乞い儀式を行うためには竜が必要であると。「水日」に清めた土からそれは作られる。竜が完成するまでは覆い隠さなければならない。雨乞い期間中は、庚子の日まで、官吏、百姓(庶民)は夫婦生活を送る。雨乞いの期間、要求されるのは、男子は深居簡出(家の奥深くに隠れてめったに外出しないこと)であり、女子は尽情歓楽(言葉では尽くしがたいほど楽しむこと)である。


 董仲舒の新しい雩礼集は、いわば伝統的雨乞い巫術の集大成である。たとえば焚柴焚牲(柴を燃やし、犠牲動物を燃やす)、暴曝巫(巫師や尪姨を陽光のもとにさらす)といった法術はもともと秦代以前の別の巫術の系統に属していた。どれも董仲舒の雩礼のコレクションの中に納まっている。


 「開陰閉陽」理論は関連する雨乞い儀法に深い影響を与えている。漢昭帝始元六年(前81年)夏、宮廷を挙げて大雩をおこない、「不得挙火」(火をともしてはならない)の令を出した。董仲舒の没後すぐに朝廷は開陰閉陽理論を実際に運用した。董仲舒が言及した「城の南門を閉めてその外に水を置く」雨乞い法は、明代にいたるまで、一部の官吏は参考にしていた。置水の法はのちに変化して「溌水澆人」(人に水をかけ、そそぐ)の挙となった。

 東魏孝静帝の天平二年(535年)五月、きわめて大きな干ばつがやってきた。宮廷は「城門、殿門、省、府、寺、署(役所)の坊門で人に水をかけるよう命じた。すなわち王侯が門を通るとき、水をかけられることになった。「水かけ」に期限はなかった。『雨が降ると(水かけは)やんだ』のである。宋代、山西地区などでは、雨を祈る民衆が一糸まとわぬ姿で腕を振りまわし、気勢を上げた。「人の道に水をかけよう」。


 土竜感応術は董仲舒の新雩礼の核心であり、その歴史的影響はきわめて大きい。漢代の学者は、土竜雨乞い法の有効性について論争までしていた。揚雄『法言』「先知」に言う、「竜は雨をもたらしているように見えるが、難しいのではないか。竜よ、竜よ」。にせの竜は竜に数えられるだろうか。それを用いて雨を求めるのはむつかしくないだろう。楊雄と同時代の劉歆(りゅうきん)は違った考えを持っている。「劉歆が雨をもたらすに、まず土竜を作る。律を吹き(吹奏律管)、方術を使い、準備は怠らない」。

 棺譚は劉歆に質問する。「土竜が雨をもたらすのは、どういう道理なのか」。また「磁鉄は針ではないが、針を吸いつける」と例を挙げて同類感応説に反駁する。劉歆は返すことばがなかった。ずっとのち、王充も棺譚に反駁した。彼は感応する15の事例を挙げた。四つの方面から土竜雨乞い術が「礼」の意味に合っていると説明した。この議論は土竜の勝利でもって終わっている。

 『続漢書』「礼儀志」によれば、後漢の時期、大旱があり、公卿官長は雩礼でもって雨乞い儀式をおこなった。「それぞれの陽を閉じる[開陰閉陽]。衣は清潔にする。土竜(土製の竜)を作り、土人(土製の人形)を立てる。二列の子供たちの舞い。伝説のように七日に一度入れ替える」