第3章 02 雨乞い(下)罪人と旱魃を火あぶりにする 

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 古代の雨乞い巫術の系統の二番目は、日照りの災難に至らしめた罪人と妖魔に火刑と日照りざらしに処すというもの。この巫術には四種類の形式がある。それは、①巫師を焼く、あるいは日にさらす。②統治者自らが焼き、自らをさらす。③山林を焼く。④各種の旱魃を焼く。

①巫を焚き、巫を曝す 

 巫師を焼く雨乞いの呪法は商代には「(こう)」と呼ばれた。卜辞には法に関する記述が非常に多かった。たとえば「〇(女扁に才)を(こう)する。よって雨あり」「(こう)と聞く。よって雨なのか」などだ。卜辞は状況から焼かれた者の名を挙げることはないが、(こう)法を実施したあと、雨が降ったかどうかが問われている。巫術がさかんだった商代において、日照りの災難と関係があると認定された巫女(女巫師)が火に焼かれる状況から脱するのは難しかった。〇という巫女(女巫師)は何度か占いによって罪を問われていたが、焼かれずにすんでいた。しかしどうやらこれは特別なことであったようだ。

 周代は商代の焚巫の俗を継承しているが、変化している部分もある。魯公二十一年(639年)夏、公は干ばつの災難から民を救うため「焚巫」を挙行しようとした。しかし文仲はそれをやめさせようとした。氏がやめさせようとしたとき、次のように言った。「(巫が)もし日照りを起こすことができるなら、火あぶりにするときはなはだしく燃えるだろう」といった。当時の人の多くはが干ばつの災難を起こした主犯のひとりとみなしていた。

戦国初期、魯穆公はを、巫を日に曝す方法で雨乞いをすることを考えた。儀礼の専門家である県子は反対を表明し、穆公はその案を取り消し、最後には「市」の方法が採用された。この二つのことは統治者の明智を示していた。当時は特殊なことなので記述されたのである。巫を火あぶりにするのは、当時特別なことではなかった。

ここの巫は巫女を指し、は障害のある男巫を指した。最初は長い間雨が降らず日照りがつづけば二人とも火あぶりにされる必要があった。のちに火刑(火あぶり)に近い日曝しの刑に処せられるようになった。言い換えるなら、巫を曝すのは、巫を火あぶりにすることのバリエーションである。

鄭玄は「」という語がとくに天を仰ぎ見ることを指し、障害を持つ人々がかがみこむことを指すのではないと認識している。野曝しにされたは上天の心に憐れみが生じ、雨が降ってきて彼らを救ってくれることを願っている。曝巫には「天が憐れんで雨を降らす」という意味がある。こういった解釈には秦代以前の焚曝呪術のもとの意味とはなかなか合致しない。



(つづく)