(2)①焚巫曝巫のつづき 

 秦代以前の「焚巫曝巫(巫を焚き巫を曝す)」と舞雩(ぶう)は、それぞれ独立した求雨法だった[舞雩とは、求雨の際の楽舞を伴う祭祀のこと]。商代の舞自舞、という二種の儀式とは関連がなかった。周代の焚巫曝巫と雩祭(うさい)の礼は自ら成立した系統だった。漢代に至って、董仲舒は「暴巫聚尫」を、儀式の前に、祭壇、設竜、舞踏などの準備を整え、大旱に至る前にまず巫師を曝す必要があった。求雨の効果がなければ、彼らを罰しなければならなかった。曝巫の固定は舞雩の前奏だったが、それは董仲舒の革新的なところでもあった。


 後漢末期、孫策は渡江して許を攻める準備をしていた。道士于吉にも軍に従って出征するよう命じた。時に大旱(ひでり)があり、孫策は将兵たちに船を加速するよう促したが、官兵たちは于吉のところに集まり、道術についての話に耳を傾けていた。

 孫策は「神を装い、鬼をもてあそび、軍の心を破壊している」として于吉を縛り上げて、白日のもとに曝した。そして彼に請雨の法術をおこなうよう命じた。そしてもし正午に雨が得られるなら、罪が許されるが、失敗すれば斬首であると告げた。

 しばらくすると雲気が蒸留し、微細な雲が集まり、正午頃、大雨が降ってきた。大地は水で満たされた。于吉を崇拝する将士たちは、これで于大師が赦免されると非常に喜んだ。しかし孫策は約束を守らず、于吉を処刑した。この伝説は後漢末、曝巫請雨術がさかんであったことを示している。この伝説を広めたのは于吉の弟子や信徒であったろうけど。


 焚曝巫師には、妖巫の懲罰と妖術の破解の二重の意味が含まれていた。漢代以降、人々はこの意味においてこれらの求雨法を用いてきた。

五代の時期、「降竜大師」と称せられた五台山和尚誠恵は風を呼び、雨を招くことができると豪語していた。後唐皇帝李存勗(りそんきょく)は彼を高く評価し、后妃や皇弟、皇子らを連れて会いに行くほどだった。

 同光三年(925年)、京師(都)が大旱(ひでり)に見舞われたので、李存勗は祈雨を請願させるために、使者を洛陽の誠恵のもとへやった。民衆は、高僧が法術をおこなうことを知っていた。空を見上げるまでもなく、雲気は早朝から出現した。しかし数十日たっても、雨粒ひとつ落ちてこなかった。

ある人が誠恵に戒めの言葉を伝えた。「大師が祈雨しても効果がないとは。皇帝は大師を焼き殺さねばならないだろう」。誠恵は驚いて逃げ出し、ほうほうの体でお寺に戻ったあと、病気になり、恥ずかしさと恐れも加わって、あっという間に死んでしまった。誠恵ははじめとらえどころのない話を聞いたと思ったが、その通りだと信じた。祈雨しても効果が得られない場合、その人が火あぶりの刑に処せられるのは、当時の慣例だったからである。


古代の人は、ほかの手段で妖巫に懲罰を与えても、天を感動させれば雨水を得ることができると信じていた。唐武宗会昌年間、晋陽の県令狄惟謙は、祈雨しても験(しるし)のなかった巫女郭某を「晋祠」の神像の前に座らせ、二十回鞭打ったあと、河に投げこんで死なせた。じつは郭某は皇帝から「天師」の称号を賜っていたので、狄惟謙の行為は越権だった。幸いなことに、巫女に懲罰を与えたあと、大雨が降り、大旱はなくなった。晋陽の民衆から州官、皇帝はもちろんのこと、狄惟謙自身も大雨は巫女に懲罰を与えた結果だと思い、彼は罰を受けるどころか、大きな賞を受けたのである。