(3) ②自ら焚き、自ら曝す(自焚自曝) 

 伝説の商(殷)の湯王は夏朝を転覆したあと、七年の大旱に遭い、最後には「自焚求雨(自らを焚いて雨乞い)」をすることにした。湯は頭髪と指の爪を切り、沐浴して衣を着替え、飾りを一新すると、うず高く積まれた柴の上に坐り、待ってから自らを焚いた。臣下の者がたいまつで着火すると、突然大雨が降りだし、大旱対策の態勢は解除された。

 湯は自焚儀式で一篇の祷詞(祈りの言葉)を詠んでいる。『論語』「堯日」や『墨子』「兼愛下」にこの祷詞の断片が残っている。その中に名言「万方有罪、即当朕身。朕身有罪、無及万方」(すべての者に罪があるとき、それは私の罪である。私に罪があるとき、それは誰にも及ばない)が含まれる。祷詞が明らかにしているように、商の湯王が罪を有したまま自焚するのは、自裁的といえるだろう。巫師を燃やす「(こう)」(燃木祭天)もそれほど異なっているわけではない。

 『呂氏春秋』「順民篇」に言う、商湯王が自焚すると決めたとき、「民は意外にもおおいに喜んだ」。商の王族は、大旱が到来したことと、君主の罪行は関係があると信じていた。商の湯王が自らを焚き、雨を請うのは理にかなったことだった。道義的に今さら身を引くことはできなかった。彼らを喜ばせたのは、別の人が主張したのでも、強く誰かが迫ったのでもなく、自ら刑を受けたいと願ったことである。そして大雨を切望する王族の彼らは多くの面倒くさいことをやらずにすんだのである。


 後世の国君に言わせれば、商の湯王が自らを焚いて雨乞いをしたのは、たいへん勇敢な行為ではあるが、とうてい及ぶものではない。国君は人々に心から愛され、信任されることはますます少なくなったが、権力はますます大きくなり、繁栄の望みはますます高くなった。しかし国君は万民の罪のために生命を捨てることなどできなくなった。陽光のもとに自らを曝す法式はもっとも頻繁に行われたが、結局は外面を整えたにすぎなかった。

 春秋時代のある年、斉国は大旱に見舞われた。斉景公は卜官の「高山大川(の鬼神)がもたらした災禍」という報告を聞いたあと、増税を始め、その収入を用いて霊山と河神の祭祀をおこなった。

 妟嬰(あんえい)[小柄の名宰相]は言う、霊山は石を身とし、草木を髪とする。河神は水を国とし、魚や鼈(すっぽん)を民とする。干ばつがつづき、雨が降らない。霊山は身がただれ、髪は焦げ、河神はその国家が滅亡しようとしている。彼らは旱災をもたらし、自ら不利な状況を作り出しているのか。山川を祭っても無意味だ。国君は宮廷を出て、田野に野宿し、数日間陽光のもとに曝されるといい。霊山、河伯とともに憂い、雨水を得る僥倖を願うといい。

 斉景公はこの諫めの言葉を聞いて、野外で三日過ごしたところ、突然大雨が降った。曝巫が焚巫のバリエーションであるように、自曝は自焚のバリエーションだった。妟嬰は斉景公に罪があると直言することはできなかった。ゆえに曝される懲罰を受ける必要があった。自ら曝すことを、「霊山や河伯とともに憂える」行為と解釈すればよかったのである。