(4)②自焚自曝のつづき
自焚して雨乞いをする方法は後世の国君に継承されることはなかった。しかし一部の書物バカの官吏に継承された。後漢の時代、二人の官吏が先人を模倣して自焚し、雨乞いをする義挙をやってのけた。
一人は戴封(後漢の大臣)である。彼は西華県の県令を務めていたとき、雨乞いをしたが効果がなかったので、「薪を積み、その上に坐して自焚を試みた。火が起きると、暴風雨がやってきた。みなが感服した」。
もう一人は諒輔(広漢新都、現在の成都市の官吏)である。彼は郡の小役人にすぎなかった。ある年干ばつが起こり、郡の太守が祈祷したが、効果がなかった。そこで諒輔は庭で自焚することに決めた。とくに注目すべきは、自焚する前に激越な口調で意見を述べていることである。
「私諒輔は股肱の臣なる者。諫言を聞いてもらえなければ、忠を尽くすことができない。賢者を推薦し、悪を駆逐する。陰陽を調和し、天意の通りにする。しかし天地の気が隔絶すれば、万物は枯れ、干からびる。百姓(庶民)は憂い、煩わしいと感じている。そうした罪はすべて諒輔の身にかかっている。近日中に太守は着ている衣を素朴なものに改め、自らを責め、自らを罰するだろう。民のために祈り、誠心誠意でもってしても、いい答えは得られない。そこでいま、私諒輔は天に向かって祈り、正午までに雨が降らなければ、自らを焚き、罪をあがないたい」
そう言い終わると、周囲に柴草をうず高く積み、手に持ったたいまつで火を着け、自らを焚いた。正午前に暗い雲が空に垂れこめ、あっという間に大雨が降ってきた。郡すべてで干ばつは解消された。戴封は自焚雨乞い以外には称賛されるべきことは何もしなかった。諒輔が名を残したのはまさにこの自焚によることが大きかった。郡の小官吏が商湯王の口ぶりをまねて、天地が不通であることを説いたが、庶民の受難が「陰陽の調和と天意の通りにすること」がなかったことについて言わなかった。これでは狂言を乱発したと言われても仕方あるまい。清人兪正燮(ゆしょうしょう)の考えでは、当時の太守はこの点を根拠に諒輔を誅殺したと見ている。商湯王は自焚しても悲壮さを失わなかったが、諒輔はかえって人に疑心を与えてしまった。それは行為の背後に功名心が隠されていたからかもしれない。