(5)③柴焚山(柴を燃やし山を焚く) 

 商代の雨乞い祭法には「取法」と「尞法」があった。この二つの祭法はどちらも「焼柴木」(柴を燃やすこと)が必要とされた。尞法は牲(祭祀用家畜)を用い、取法は用いなかった。卜辞に「取河、有従雨(河の取祭を行う、それによる雨はあるのか)」「取岳、雨(岳の取祭を行う、雨がもたらされるか)」「其れ尞于岳、大牢、小雨(岳の尞祭をする、大牢、すなわち太牢宴か、小雨か」などは例となるだろう。


 取、尞、これらの祭法は周人に継承された。『周礼』「大宗伯」に言う、「槱(ゆう)、燎によって祀るのは、司命、風師、雨師である」。槱、燎は卜辞の取、尞に粗糖する。『説文解字』によると、「槱とは、積み木の燎のことである」。また「尞とは、祭天の柴(火)のことである」。柴木の燔焼(はんしょう)はこの二つの祭法に共通している。


 董仲舒『春秋繁露』「求雨」は言及する。「三歳の雄鶏と三歳の(おす)豚を取り、四通神の部屋の中で燃やす」「鼓の音を聞く。(おす)豚の尾を焼く」「山淵を開く。薪を積み、これを燃やす」など。どれも槱燎法を踏襲して用いたものだ。開陰閉陽の原理からすると、雨乞いのときに火をともすことはできない。董仲舒が無視できないのは、家畜を燃やし、柴を燃やすことと、開陰閉陽とが矛盾していることである。ただ彼は依然としてこれをおこなうよう求めている。つまり変更するにはあまりに古くから礼として行われてきたのである。


 なぜ雨乞いのために柴に火をつけなければならないのだろうか。董仲舒の「山淵を開き、薪を積み、これを燃やす」という言葉に答えが示されている。「山淵を開く」とは、山林を切り開くという意味である。「開山」のあと、雨乞いのために「薪を積み、燃やす」その薪は、山上で切った樹木である。推測するに、積んだ薪を燃やすのには、山神を罰するという意味が含まれるのではなかろうか。

 秦代以前の人は、長く雨が降らないのは、山川の神が怪をなしているからだと考えていた。殷人は河岳を「舞い」、河岳を「取った」。斉人は、大旱は高山、広水の祟りと考えた。どれもこの観念の反映である。

 『左伝』「昭公十六年」の記載によれば、この年鄭国大旱、執政官の子産は屠撃(とげき)、祝款(しゅくかん)、竪柎(じゅふ)の三人を祭祀の担当として桑山へ派遣した。しかし屠撃らは桑山で別の方式を取った。その木を「斬って」、最後に雨水を求めたのである。子産はこのことから三人の禄邑(臣下が君主からもらった田畑)を剥奪した。

 実際、屠撃らが山林を伐採したのは、山神を罰し、雨を降らせるよう迫ったのだった。典型的な雨乞い巫術である。この事例と董仲舒の「山淵を開く、薪を積み、これを燃やす」のと一脈通じるところがある。

 唐代、一部の地域では焼山雨乞いの習俗があった。『酉陽雑俎』「諾皐(だくこう)記上」に言う、「太原郡東に崖山がある。天旱。土人つねにこの山を焼いて雨乞いをする。俗に伝えるに、崖山神は河伯女(むすめ)を娶った。ゆえに河伯は火を見るとこれを救おうと雨を降らせる」。

 商周の時代、取(槱)、尞(燎)によって雨乞いするのは、もともと山川の神に懲罰を与えるという意味だった。法術の中には犠牲の家畜を用いてそれらを結合するものもあった。そうした宗教観念が発展して巫術と祝融を一体化させた。


 梁朝以前は、国家雩礼のなかに燔柴の儀を残していた。梁武帝天監七年(508年)、状況は一変した。あるとき梁武帝は群臣に問うた。「種類ごとに陰を求め、陽を求めるのは理にかなっている。陰によって陽を求め、陽によって陰を求める。いま雨乞い儀式で点火して柴を焚く。なぜ火をもって水を祈るのか。人に疑問を抱かせるものだ」。

経史笥[史書の入った箱のことだが、転じて博識な人を指す]と称される許懋(きょぼう)が回答した。「雩祭燔柴は、その元となる文がありません。この種の儀法が採用されるのは、先儒(古代儒者)が深く考えないで作ったものが多いと存じます」。そして証拠として『詩経』「雲漢」を出し、祭地礼儀に使う祭品ばかりが記され、燔柴の儀に関するものは出てこないと述べた。

 最後に建議を提出した。「柴を用いるのは停止してください。その牲牢(祭祀用の牛、羊、豚などの家畜)はことごとく坎瘞(かんえい)から出たものです[坎瘞とは祭地礼のとき家畜や玉帛などを地下に埋める儀式のこと]。周宣の『雲漢』にも述べられています」。

 梁武帝は許懋の意見を採用し、雩祭の燔柴の儀を取りやめた。前述のように、舞は雩の別称であり、雩礼は設竜(竜の塑像などを作ること)を主としていた。焚曝巫師とともに、燔柴燔牲をおこなう雨乞い法は、秦代以前は二つの系統に分かれていた。だから許懋の話には道理があった。しかし許懋は燔柴の儀の歴史的深淵を否定していたので、かえって確かさが欠けていた。開山燔柴は、はじめ雩祭と一体であったかどうかはさだかでないが、古い雨乞い法術であったことは間違いない。