(6)④焚撃旱魃(旱魃を焚いて攻撃する)
漢代以後、旱魃の伝説は秦代以前の「女魃」神話の基礎の上に変化し、発展してきたものである。人によっては、魃を一種の怪獣[文字通り怪異なる獣]と理解する。旧題東方朔撰『神異経』に書く、「南方に人あり。長さ三二尺、裸で頭の上に目がある。風のごとく走り、名を魃という。これを見る国は大旱で、赤地千里(土地が荒涼としているさま)である。いわく旱母、いわく貉(かく)。これにたまたま遭った者は、それを溷(こん)すなわち便所に投げ込めば死んでしまう。すると旱災は消えてなくなる」。
これが言っているのは、旱魃という怪異なる獸を捕まえて茅厠(便所)に投げ込めば、旱(ひでり)を除くことができる、ということだ。史書にも「晋陽、長さ三尺、面頂に各二目の死んだ魃を得る」「長安、女魃を得る。長尺二寸あり」といった怪誕(奇怪な話)の記載がたくさんある。これらはどれも好事の徒が魃を怪異なる獣とする荒唐無稽な伝説を集めたものである。
宋人周密は記す、金朝貞祐初年、洛陽に大旱あり。伝えるところによると、登封の吉成村(鄭州市)で旱魃が祟りをなした。老人は言う、旱魃が来るときはかならず火の光があると。一部の青年たちが高いところに登って眺めていると、火光が一団となって農家に入っていくのが見えた。そこでみなで杖を持って叩くと、火星(火の星)が散り散りになった。また怪物が駱駝のような叫び声を発した。
清代、ある村人は旱魃を見て怪異なる獣とみなした。「己卯の年(光緒七年、つまり1879年)の七月、光福山人[光福山は帰有光の詩作]はあちこちで喧伝して旱魃を有名にした。星と月が交わるたびに、山峰の頂に何かが出没した。木の間にべたりと座り、人に似て人でなく、鬼に似て鬼でなく、ぼさぼさの髪とヒゲが目立ち、直視できず、体全体を捉えることができず、鉛土のように輝き、頭上の冠はひっくり返った皿のようで、いつも白霧に包まれ、畏れ知らずといった風だ。山人はみな同じようなことを言う。これは我が物だという。一、二か月雨露なし。厳格に処す(魃を焚く)」。
この怪異なる獣は旱魃である。清人はこれを「獸魃」と呼ぶ。
『子不語』巻十八「旱魃」は、その姿は猿(猱 なお)のようで、髪を振り乱し、一本足だと述べる。それを捕えて、僵尸(キョンシー)に対するのと同様に焼き殺す。すると旱(ひでり)が駆逐され、雨がもたらされる。
また一部の人は、旱魃は女性が生んだ妖怪だという。宋人朱彧(しゅいく)は『萍(へい)州可談』に言う、「世に伝わるに、婦人は鬼のようなものを産むという。生かすことができず、これを殺すと飛び去って行く。夜また戻ってきて乳を吸う。母親は憔悴しきってしまう。俗にこれを旱魃と呼ぶ」。当時の人はこの魃に男女の性別があり、同じではない。「女魃はその家の物を盗んで出て、男魃は外で物を盗んで帰る」。この旱魃に対し、妖怪を産んだと認定された婦女は厳しい罰を受けることになる。
十六国の時期、北燕国でこの類の事件が発生した。太平十五年(423年)春から五月にかけて干ばつがつづいた。ある人が右部官王荀の妻が妖なるものを産んだが、どこかへ疾走したとして訴えた。朝廷は人を派遣して王の妻を逮捕し、彼女を社壇の上に置いて曝晒(陽光のもとにさらすこと)させた。しばらくすると雨があまねく降った。
この悪習は清代までつづいた。当時、中原が大旱に見舞われると、だれかがどこかの家の妻が旱魃を産んだらしいというデマを流す。すると多くの人が集まってきてこの女性を引っ張り出す。そして彼女にいっせいに水を浴びせる。それは「旱魃への水かけ」と呼ばれる。デマを流すのは多く不良の輩であったが、彼らは仇敵を陥れる機会を待っていた。これに乗じて私憤を晴らしたのである。