(7)僵尸(キョンシー)
明清の時代、僵尸を旱魃とする考え方が甚だしく流行した。ここから打旱骨術、焚旱魃術などの雨乞い法術が派生したのである。
死者の骸骨と大旱に関連した観念の起源はかなり古い。『春秋繁露』「求雨」は、雨乞いのとき「死者の骨を取って埋める」必要があると強調している。
後漢の河南の尹周暢(いしゅうちょう)は干ばつの状況を改善するために、洛陽城周辺の一万体以上の客死者の骨をきちんと埋葬した。これにより雨を得た。
東魏の孝静帝天平二年(535年)三月、「干ばつのため京邑および諸州郡県に骸骨を埋葬するよう詔(みことのり)を出した」。このことからもわかるように、当時の人は骨の収集を旱災が収まるための重要な要素と見ていた。とはいえそのとき死者の骸骨と旱魃を同一視していたわけではない。おそらく明代からもう少し前の頃、民間では骨が旱魃になったと口々に言い伝えられるようになっていた。
明人楊循吉『蓬軒別記』に言う、「河南山東の愚民は大干ばつに見舞われると、新しく葬られた死体の骸骨が旱魃になったとみなされた。群衆は骨を発掘すると、ばらばらで、腐乱した遺体に祈りをささげた。これを「打旱骨樁」という。長い間行われてきたが、しばしば偽りによって報復が果たされることがあった。孝子慈孫(祖先を大切にする人々)はどうすることもできない。干ばつを除くという名目で愚民が互い煽りあい、蟻のように群れるのを禁止することはできない」。
弘治四年(1491年)ある人が俗を禁じるよう奏文を上程した。宮廷はすぐに「打旱骨樁」を企てた者や首謀者に厳罰を下した。一般の参加者やその周辺にも罰を与えた。これにより墓を暴いて骨に損傷を加える習俗はしだいになくなっていった。
習俗というものができあがってしまうと、行政命令だけに頼っても完全に禁止するのは困難だった。清代に到ると、雨乞いをする者は古い墓を見つけて骨に攻撃を加えるだけでは満足できなくなった。彼らは激しい火で死体の骨を燃やすようになった。上述の袁枚の小説に書かれるように、旱魃は「首吊り死した死体が迷い出た者」であり、「鬼魃」と呼ばれ、「捕獲してこれを燃やせば、雨がもたらされる」のである。
『閲微草堂筆記』巻七に言う、「近世に旱魃というのはみな僵尸(キョンシー)のことである。掘ってこれを焚く、しばしば雨がもたらされる」。僵尸を焚いて雨乞いをする方法は清代に流行したようである。
古代の雨乞い巫術には二つの体系があったが、ほかにも分類しがたいもの、出所のわからない「雑法」がたくさんあった。上述の張皮雀の鏡致雨術、范希越の天蓬印致雨術などもこの類である。
陶宗儀『輟耕録』巻四で紹介されているように、元代のモンゴル術士の間には特殊な禱雨法があった。漢人が雨乞いのために用いる印符、令牌、旗剣、炁訣(きけつ)などを用いず、「浄水を一盆取り、小石を数個これに浸す」。清水や小石を準備したあと、術士は秘密の呪文を声に出さないで唱え、繰り返し石を洗い、撫でる。しばらくすると、雨が降る。
術士は鮓答(さくとう)と称するものを用いる[鲊はなれずしに近い]。これはじつは動物の内臓にできた結石である。なかでも犬、牛、馬の結石が有用だという。類似した雨乞い秘術のなかでも、巫術原理を根拠としているが、明瞭とは言い難い。民俗への影響は限られている。一つ一つ探し求めて列挙するまでもないだろう。