第3章 03 相対的に貧弱な止雨呪術 

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 複雑で多様性のある雨乞い巫術と比べると、古代の止雨呪術は単調である。呪術師が干害を追い払って雨を求めることに精力をそそぐが、それに対して暴雨や洪水を防ぐのは趣のないことだ。古代の水害は干害と比べると少なかったが、もたらされる危害は同様に大きかった。呪術師(方士)は災害を防ぐことに関してはそれほど積極的ではなかった。それは巫術自体に限界があるということでもあった。

雨乞いは「無」を「有」に変えることであり、成功する確率は高かった。荀子が言うように、(う)祭でもってしても、同様になかなか雨は降らないが、もし呪術を施して雨が降ったなら、彼は恥じることなく堂々と呪術に効験があったと宣言するだろう。雨乞い儀式は一般的に長期にわたっておこなわれる。長くなれば呪術と降雨がめぐりあう可能性がより高まることになる。呪術は成功したことになり、さらに多くの信仰者を得ることになるだろう。そして呪術師はいっそう研鑽を重ねていき、発展させていくのである。

それと比較して、「有」から「無」に変える止雨は逆に困難につきあたる。暴雨を止めることはなかなかできず、止雨者はその術が効果あることを示さなければならないが、雨乞いのように三日や五日で結果を出すのはむつかしく、しかも暴雨によってすでに町は水没しているかもしれない。雨を止めるだけならうまくいくかもしれないが、暴風雨によって起こった洪水に対してはなすすべがない。巫術はこのように苦境に陥りやすい。避難するだけなら簡単なことだといって、力のすべてをこの終身の役目に投じたいとは思わないだろう。そのわりに成功を収めることは少ないのである。


 秦代以前は止雨に関しては「攻大水」儀式しかなかった。その内容は簡単なものだった。『春秋』「荘公二十五年」には「秋、大水、鼓、社や門にて牲(いけにえ)を用いる」と記されている。大水に対してできることは犠牲を用いて社神、門神を祀り、太鼓を叩くことしかできなかった。

 周代には社神を祀った。これは共工の子句竜だった。「九土を平定した」ので社神に祭り上げられたのである。洪水が発生したあと句竜を祀ったところ、神威を示し、水患を平定したのである。門神を祀ったのは、大水を門のところで阻みたかったからである。太鼓叩きは威嚇手段であり、攻撃手段だった。『周礼』「詛祝」には「攻める」方法が書かれている。太鼓を叩く間に詛祝することも可能である。そばにいる神職の人は攻辞を読み上げる。


 注意すべきことは、太鼓を叩いて攻める直接対象は大水でなく、社神である。『左伝』によると、大水が発生したときに「社で太鼓を叩く」のは慣例ではない。日食や月食のときのみ太鼓を叩くことができる。すなわち大水が発生したとき社で太鼓を叩くのは、日月食を救うときの方法を借りたにすぎない。救日礼の太鼓叩きは、基本的に社神に対するものであり、洪水を駆除する太鼓叩き法は、同様の性質を持って自ら解決するのである。

太鼓を叩いて社を攻めるのと、社で生贄を用いるのは、矛盾しているようにも見える。実際は、威嚇とうまい誘いである。目的は同じであり、衝突することはない。巫術と宗教が混合したあと、神霊に対する恩威と施した事例はしばしば区別しがたい。『穀梁伝』評論の魯荘公二十五年に「鼓、社で、門で犠牲を用いる」。すでに太鼓を叩き、犠牲を用いる必要はない。これは祭祀と巫術が結合して導いた誤った説である。