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 古代中国で唯一系統的に止雨法術を論じたのは董仲舒だった。董氏は止雨の難題を回避したりはしなかった。というのも、彼はそれを難題とはみなさなかったからである。彼は陰陽が感応する原理をのみ見ていたので、止雨も求雨も同様にシンプルに考えた。「求雨、諸陽を閉にし、諸陰を縦(ほしいまま)にする。止雨はその逆である」。すなわち求雨と逆のことをする。陰気を閉塞し、陽気を助長する。これで止雨は成功する。

 『春秋繁露』「止雨」の中で董氏は以下のように「廃陰起陽」(陰を廃し、陽を起こす)を羅列し、止雨法を示す。

各県城は「土日」をもって、すなわち天干中の戊己日、あるいは地支中の辰戍丑末日、水路を塞ぎ、道路を隔絶し、井戸に蓋をする。

 婦女の外出を禁止する。さらに彼女らが市場に入るのを許さない。

 各県、郷、里はそれぞれも社壇の周囲を清掃する。三名以上の主祭者(当地の行政長官)と一名の祝官を推挙する。彼らは三日間斎戒し、季節に合った時衣(春の青衣、夏の紅衣など)を着て、一頭のブタ、適量の黍、塩、酒を捧げて社神を祀る。太鼓を叩き、三日後、祝官を通して祈り告げる。祝官はふたたび礼拝したあと、跪いて祈辞をよむ。そしてまた礼拝したあと身を起こす。祈辞は以下の通り。

(ジェ)! 天生五穀、人を養う。今、淫雨多く、五穀和ならず。肥えた動物と清酒を捧げ、社霊に請願する。幸いにして雨を止め、民の苦しみを除き、陰に陽を滅びさせない。陰が陽を滅ぼせば、天は不順になる。天の意はつねに人を利することにある。人は雨が止まることを願い、社に敢えてそれを告げる」。

 祝言が終わると、止雨に参加した者は歌うことも、踊ることもない。ただ太鼓を叩き終わることはなく、疲労困憊してようやくやむ。