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董仲舒は指摘する。「おおよそ雨がやむところでは、女子は隠れていたい、男子は調和して楽しみたいもの。陽を開き、陰を閉じる。水を閉じて火を開く。赤い糸で社(土地神の場所)を十周巡り、朱色の衣の頭巾を被る」。
朱糸(赤い糸)、朱衣と赤い頭巾はどれも陽気を代表している。陽で陰を抑えるのを助けることができる。これによって止雨は確実に陰陽感応原理と符合する。しかしある一点に言及せざるをえない。
董仲舒は五行学説をもとに止雨法を根拠に「各衣を各時節に合わせる」、すなわち雨を止める者は春、夏、季夏、秋、冬に応じて青、赤、黄、白、黒の衣を着なければならない。
ここで一律に要求されるのは、「朱の衣の赤ずきんを被る」である。おそらく董仲舒は冬に到り止雨のために黒の服を着るのは、「廃陰起陽」の原則に違反していると考えたのだろう。黒色は水に属し、陰に属す。黒衣を着て止雨することは、水でもって雨を止めるということである。それは陰気を助長するということであり、雨水をさらに多くするということである。それは「朱の衣の赤ずきんを被る」ことによって隙間を繕うことである。
戦国時代以降の陰陽五行の図式は削足適履(足を削って履をはくように無理に作ったかのような)の宇宙図である。陰陽についてもっぱら話すとき、あるいは五行についてもっぱら話すとき、矛盾はあきらかでないが、いったん陰陽と五行をこねあわせると、事物の解釈はいたるところで矛盾だらけになる。止雨に関して(雨乞いも含まれるだろう)何色の服を着るかについて矛盾があっても、その方法論はもとより欠陥があったのである。この矛盾は誰にも解決できない。
「止雨」には、漢武帝二十一年(元狩三年、前120年)董仲舒が江都相の身分で江都内史や中尉に書いた文書が収録されている。そのなかには「止雨の礼、廃陰起陽」と明確に書かれ、「女子は市に到ることができない」「井、これに蓋をする。(気を)漏らすなかれ」とも書かれ、太鼓を叩くこと、牲を用いること、祝祷などについて述べられている。
この文書の補足の文の内容はつぎのとおり。
江都国内十七県、八十郷および国都内千石以下の官員で、夫人が官府内に住む者は、かならず彼女らを家に帰さなければならない。
文書が届いた日、県、郷、里の各級の首領はかならず当地の男子を率いて社壇のもとへ行き、会食を三日間開かなければならない。もし三日間ずっと晴れたなら、晴天が終わったときに会食は結束する。
さらに注目すべきは、董仲舒の求雨(雨乞い)法は官吏の妻に官府に住むことを要求し、「官吏と庶民の夫婦みなふたりで住むこと」を要求する。同時に男は一緒に飲食することが禁止される。ここで述べられる止雨法と上述の求雨(雨乞い)法は相反している。それは「女子は隠れたがり、夫は調和を欲し、楽しみたがる」という方針が具体化されたのである。