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董仲舒の止雨法は巫術と宗教のごった煮みたいなものだ。太鼓をいつまでも打ち鳴らす、社を赤い糸でぐるぐる巻きにする、水溝をふさぐ、道路を断つ、井戸に蓋をするといったことはみな典型的な巫術である。またひざまずいて祈り、家畜の犠牲を献じるなどの祭祀をおこなう。
止雨法の性質について、董仲舒は「攻」が主体であると認めている。当時の人が質問した。
「大旱のときに雩祭を挙行します。それは地上に雨がもたらされるよう、祈り求めるものです。大水が発せられると、太鼓を打ち鳴らし、社を攻めます。大旱、大水のどちらも天地のなすところであり、陰陽二気が変化したものです。なぜ祈求の法を用いるのでしょうか。なぜ怒攻の術を用いるのでしょうか」
董仲舒は答えた。
「天地の間、陽気を尊とし、陰気を卑とする。大旱の発生は陽が陰に勝ち、尊が卑に勝ったことによる。尊が強すぎるのである。尊卑の秩序はこのようなものだが。それゆえ大旱のときは尊貴の陽気をもう少し加えるよう哀願することになる。ほかにどうすることもできないだろう。
大水が発生するときは、同じではない。それは陰が陽を欺き、卑が尊に勝った結果である。つまり日食と同様、それは以下の犯罪にかかわる。賤が貴を傷つけ、天地の間の正常な秩序公理に違反する。不義の陰気に対して、情が移らないように気をつけながら、太鼓を打ち鳴らして攻撃し、赤い糸を巻き付けて脅す」
董仲舒は陰と陽の関係から世間の君と臣の関係を理解した。また水害を反乱とみなし、大水を攻撃する伝統巫術から政治倫理上の根拠を探した。止雨と大水を攻めるのは性質上おなじとする董仲舒の理解は、止雨法術に対する代表的な見方だった。
後漢の頃、王充は太鼓を打ち鳴らし、社を攻めることに言及し、批判した。王充の批判反論は現在から見るとやはりおかしなところがある。たとえば、と彼は言う。君主は天を父となし、父を母とする。陰気がさかんなため大水がもたらされたなら、すなわち地母を攻撃することになる。つまり母の親族の誰かが悪いことをするのを待ち、母親本人を攻めるのである。
また言う、ある人が社を攻めて水を止めようとしたとする。というのも、社は陰に属するからである。しかしそういったことはできない、なぜなら同族の陰だから。つまりだれが無差別攻撃を起こした主犯であろうと関係ないのである。たとえば甲という盗賊が目の前にいて、ためらうことなく乙の家に向かおうとしているとき、どうやって阻むことができるだろうか。
いま大雨が降り、大水が発生していて攻めることができないのに、社へ攻めに行く。これはまったく道理がない。王充は、社で太鼓を打ち鳴らすという止雨方法に反対しているわけではない。彼はただ太鼓を打ち鳴らして社を攻めることに意味はないと説明しているにすぎない。彼から見ると、太鼓の打ち鳴らしは社神に急を告げる方法である。
雨を止める者は、祝官が社神に陰盛陽衰(陰がさかんで陽が衰えていること)であることを伝達してもらうしかない。災害になるほど大雨が降るということは、まだ十分に社神の気を引いていないということである。そこで太鼓をさらに強く打ち鳴らし、急迫しているという雰囲気を出していく。