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王充によれば、董仲舒は女媧を祭祀する止雨法を提唱している。漢代の神話に登場する女媧は、五色石を精錬して蒼天を繕い、大亀の足を切って天柱とした女の帝王である。董仲舒は女媧を祭る法を用いて雨を止めようと考えたが、それは陰陽学から出発するということだった。女媧は陰気を代表する神霊である。つまり陰気が害をなしたとき、彼女に祈って保護を求めたのである。
董仲舒の止雨法と求雨(雨乞い)法はともに後世、経典に収められた法術である。晋代は「雨が多ければすなわち禜(えい)祭をおこなう。朱衣赤ずきんをかぶり、諸陰を閉じ、社のまわりを朱索(赤い縄)でめぐり、朱鼓を伐る(伐るとは太鼓を鳴らして信号を送ること)」。
唐玄宗の天宝十三歳(754年)、長安は連日暴雨が降り、朝廷は「坊市北門を閉じ、井戸に蓋をし、婦人が街市に入るのを禁じた」。これらの方法は『春秋繁露』から来ている。
古代術士の多くは求雨(雨乞い)をすることはできたが、止雨はできなかった。上述のように無畏三蔵と「豢竜者」(竜を飼う者)は軽々しくは竜を召して雨をもたらすということはしなかった。彼らは竜を放つことはできるが、収めることができないのである。
唐睿(えい)宗景雲年間、胡僧宝厳は止雨の法を有すると称した。壇場を設け、呪文を詠み、二十匹の羊と二頭の馬を殺し、神霊を祭った。五十数日間連続して施術をおこなうと、雨は次第に勢いを増していった。官府は宝厳を捕えて斬首刑に処した。すると雨が降らなくなった。
『酉陽雑俎』「貝篇」に言う、唐玄宗のとき、梵僧不空は仏教事務の総主持を任され、相当の信頼を得ていた。ある年、大旱が起こり、唐玄宗は不空が提供した設壇祈請という方法を採用した。しかし結果は暴雨を招き、あらたな災いを起こすことになった。
玄宗は不空を招き、今度は緊急に雨を止めるよう要請した。不空は寺院の庭で泥をこねて五、六匹の竜を作った。そして軒の上に立って梵語(サンスクリット)の呪文を念じた。しばらくして泥竜を放つと、大きな笑い声が響き渡った。すると雨はなくなり、空は晴れ渡った。この小説から術士は雨をもたらすことはできるが、雨を止めることはめったになかったことがわかる。