古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第3章
3 招魂(下) 降神附体など諸々の招魂術
(1)
招魂術には降神附体、視鬼役鬼、収撮生魂などの形式がある。道士がつねに用いる自身の魂魄をコントロールする方法、そしてその性質と招魂術はよく似ている。超自然的な力量を運用して鬼魂、生魂をコントロールし、最終的に人をコントロールし、操るのを目的とするのは、呪術に共通する特徴だといえるだろう。
Ⅰ 降神附体
降神術と復礼および返形術とはまったく異なるものだ。それが召喚するのは死人ではなく、祖先の魂魄であり、神霊や鬼怪である。術を施したあと、神霊が降りる対象はおなじではない。降神術はおおよそ三種類ある。すなわち巫師の体に降りる神霊附体、他人の身体に降りる神霊附体、そして器具に降りる神霊附体である。
<自身の身体に降りる>
巫師は自身に神を降ろし、自身を神霊の代弁者とする。すべての降神術のなかでもっとも早く流行したものと考えられる。巫の原形は舞いによる降神である。舞踏によって恍惚状態に陥り、神霊が附体したことを顕示する。秦代以前の楚人は祭神儀式上の巫覡(ふげき)を「霊」あるいは「霊保」と称した。そのため降神のあと、巫覡は神の化身と見られた。
五代人の譚誚(たんしょう)は言う。「祭祀をするとき、魑魅魍魎は巫の身上に附く。巫の口を借りて発生する禍福のことを予言する。毎度巫の身上に附着するとき、話すことばと食べる飲食は常人と異ならない。巫の(魑魅魍魎が附いた)体を離れるとき、話すことばや食べる飲食は常人と異ならない。魑魅魍魎が巫に附いたのか、巫が魑魅魍魎に附いたのかわからない」。譚誚の説は、古代の巫師の降神活動を言い表しているだろう。
神が降りたときの動作、声、傍観者へのそぶりは強力な感染力を持っている。もし傍観者が敬虔な呪術の信徒であるなら、感染力はさらに増大するだろう。呪術はこの種の感染力を通じて人の精神状態を奇跡の創造から変えることができる。たとえば巫師の「下神」(神降ろし)を経て全快する事例はそれほど多くない。しかし個別の霊験不足は巫術の本質を変えるものだ。葛洪はかつて「巫祝小人」を厳しく非難した。彼らがでたらめを言い、たたり、病気を装い、お金をだましとるなどの行為が許せなかった。後世の人々は降神をする者にたいしてときには恥ずかしく思い、ときには嘲笑した。
<他人の身体に降ろす>
巫師はときには神霊を他人の身体に降ろすことがある。神の代理の発言をし、自分を抑えきれずに大笑いし、舞踏し、拳や棒を使って演習する。
宋人洪邁は言う、「漳泉の間の人は『濊跡金剛法』を持して治病除災し、童子に神が降りて語る」。濊跡金剛法とは梵呪(陀羅尼)である。
清人が記す『閑処光陰』にも梵呪(陀羅尼)が記録されている。他人に降神させる法はおもに児童に降ろさせる。明・清人はこれを降僮、あるいは舞仙童と呼んだ。
清代末期にこの呪法の影響が多きくなり、義和団のなかでも降神練武の法術があった。初心者の神拳をおこなう者は神壇の下でひれ伏し、いわゆる大師兄なる者が符を焚焼し、呪文を誦し、神を請い、上下の歯をしっかりと噛み、口で呼吸した。にわかに口から白い泡を吐き、高らかにことばを述べた。「神よ、降りるがよい!」。その人は刀と棒を持ち、おもむくままに舞い踊った。
<器物に降ろす>
器物に神を降ろす法術とは、吉凶を占う扶箕(フーチー)、圓光、降廟などである。扶箕は扶乩とも書く。また飛鸞(ひらん)、神卟、降仙とも称される。そのやり方とは、まず丁字形の木切れ(棒の一方の端が曲がって垂れているか、筆を付ける)を砂盤や紙の上に置き、字を書く。文字や句(フレーズ)によって吉凶を占う。
明清の時期、上は皇帝、大臣から下は士人、庶民に至るまで箕仙や扶箕術を信じていた。このあたりのことは許地山『扶箕迷信的研究』に詳しい。
円光は卦影とも言う。術士(呪術師)は符を焚き、神を招いたあと、紙や鏡の中に、あるいは水中に未来、未知の風景を現出させる。『閲微草堂筆記』巻九「壁に白い紙を張り、符を焚き、神を招く。五、六歳の子供がこれを見ると、かならず紙の上に大円鏡が現れる。鏡の中に人がいて、未来のできごとを示す」。これは円光術の一種である。
『子不語』巻二十二「降廟」には粤西(広西)の降廟の法について詳しく述べられている。それがどういうものかというと、まず廟に行って中で卜卦をおこない、神を降ろす。降神が成功すると、水を満たしたお椀の上に八仙桌(テーブル)をさかさに置く[八仙とは鉄拐李、鐘離権、張果老ら八人の仙人。八仙桌は伝統的なテーブル]。そのとき四人の童子に指で卓を持ち上げさせる。降神をする者は呪文を唱えたあと、木卓の周囲をまわりだす。「そののち薬方に頼み、(薬で)効験なきものはなかった」。降神者は神霊をおのれの身体に降臨させると、ふたたび符を用いた呪術をおこない、霊力を童子と木卓に伝えた。
降神術をおこなうことでしばしば童子と器物に常ならぬ現象を作り出させた。部外者にはなかなか理解しづらいことである。奇跡が発生する真の原因を解明する前に、宋人王陽玄が語る故事からこの神術の性質について推論してもかまわないだろう。陳増の妻は巫祝李恒に呪術をやってもらった。李恒が水盆に白紙を入れると、二匹の鬼に女性が引き裂かれる画が現れた。陳の妻はそれを見て激しく恐れおののいた。陳増はこのことを聞いて厳しく対処することを決意した。二日目、陳増は李恒を呼び、もう一度紙を水中に張らせた。紙の上に現れたのは、十匹の鬼がひとりを引き裂く画だった。その人の頭の上には姓名が書かれていた。「李恒と書かれている」。李恒は慙愧の念に耐え切れず、その場から出ていった。李恒の招鬼の術は薄っぺらで、十分ではなかったということである。ただ陳の妻という一流の眼の中にのみそれは神秘的であるとともに、形容しがたい恐怖だったのである。
(2)
Ⅱ 視鬼役鬼
視鬼術とは朦朧とした状態のなかで人に鬼神を見せることを意味する。それは鬼神を招くということではなく、人や人の霊魂を冥界に、あるいは仙境に招き入れるということである。
視鬼術の基本手法とは、巫術の霊物か迷酔性の薬物の使用である。人の乳に鷹の眼を入れてすりつぶし、夜間にこの混合液を目に滴り落とす。三日後、碧色の空に鬼神を見ることができるようになる。
フクロウの眼(の粉末)を服用するか、朝コウモリの血を目に滴らせるかで同様の効果が得られる。蛇の油を用いて灯をともし、水中に放てばさまざまな妖怪が発見されるだろう。
昼、ムカデ、蛇、サソリを甕の中に入れる。すると中で互いにかみ合い、毒虫が最後に残る。その血液から混合薬物が作られる。法術を求める者には、それで目を洗わせ、「妄見眩乱」(目がくらんで真実でないものが見えてしまうこと)を起こさせる。こういったことは等しく巫術である。上述の生き物たちは眼光が鋭利で狂暴であり、夜間も目が見え、その他神秘的な能力を有している。それゆえ人に視鬼能力を賦与できるとされる。
巫術と薬法の間を埋めるのが視鬼術である。後漢『神農本草経』によると麻蕡を多く食べると、「鬼が見えて狂ったように走りだす」という。麻蕡とは大麻である。一部の学者の推測では、酒や大麻など幻覚性の薬物などを用いて神霊と交流する方法は有史以前から巫術の実践において使われてきた。商代の頃には巫師の常套手段になっていた。この状況と世界においてシャーマンが大麻などの力を借りて降神をするのとよく似ていた。巫師は自分が幻覚植物などを用いるとともに、ほかの人を「鬼視」の幻境に入れさせることもできた。
方以智『物理小識』巻十二に言う、紫麻油を清水で溶いて服用すると、精魅(精怪)を見ることができるようになると。莨菪(ハシリドコロ)、雲実(カワラフジ)、防葵(ボウキ)、赤商陸(アカショウリク)、曼陀羅花などを服用すると「みな惑わせ、鬼を見させる」。曼陀羅花は古代においてもっとも用いられてきた。一般的にそれは蒙汗薬(モンゴル・ハーン薬)の主要成分とされる。唐人孟詵(もうしん)は言う、「鬼を見たい者は、生麻子、菖蒲、鬼臼などを細かくし、杵でついて弾の大きさに丸め、毎朝太陽のほうに向いて一粒服用する。満百日で鬼が見える」と。以上いわゆる「見鬼」「視精魅」とは中毒になって幻覚を見るようになったと理解できる。
清代青陽庵の和尚は出家前に「人は死人の枕辺にある飯を盗み食いすることができる。左手で取ってすこしばかり食べるなら、他人に見られず、このあと七度、日中に鬼を見ることができる」と聞いたので、自ら試してみることにした。試したあと、いつでもどこでも鬼魂を見ないときはなかった。ついには「だんだんと嫌悪し、かつ恐れる」ようになり、たびたび狂人のようになってしまった。のちに瘋病は張真人が符水を用いて治すようになったが、それについては何も知らなかった。視鬼術の実践の価値がどのようなものであれ、類似した事例から答えがみつかるかもしれない。
古代の道士は常々、練気、存思、明鏡掛けなどの方法で神霊と会うことができた。古い小説にも視鬼(鬼を見る)の能力を持った「高人」(精神的に超越している人)の記述は多い。彼らは清代末期の民間で、人を陰間(冥界)に導いて亡くなった親族と会わせる「走陽」「関亡」といった術を用いた。要するに視鬼術が荒唐無稽とばかりいえなくなったのには、それなりに理由があった。
呪術を実践しているとき視鬼術と役鬼術を明確に分けるのはむつかしい。ただそれらを二つに分類するのに簡単な説明の仕方がある。役鬼術もまた古代巫師の基本技能の一つだった。その起源は秦代以前にさかのぼることができるだろう。漢代にはじまって役鬼術は発展し、桓譚は「鬼物を使う者」として五種の「天下神人」のひとりとみなされた。
伝説によれば漢代のもっともすぐれた役鬼大師は後漢人の費長房である。長房は若い頃ひとりの老人の師のもとで学んだ。学び終えて師のもとを去るとき、彼は師から役鬼霊符をもらった。故郷の汝南(現河南省駐馬店市汝南県)に戻ったあと、彼はこの霊符を用いて病を治し、鬼を笞(むち)打ち、社神を駆使した。あるときひとりきりで誰もいないのに怒鳴っていることがあった。そのさまは毅然としていた。長房が言うには、今まさに法を犯した鬼魅を叱責していたという。
汝南郡府門前には、長房が捕えたしばしば世を乱した鬼魅が囲われていた。法術を駆使してもとの鼈精(べつせい、すっぽんの精怪)の姿をとらせていた。長房は鼈精に命じて太守の面前に行かせ、謝罪させた。また信書を持たせ、葛陂の神「葛陂君」のもとへ行かせた。
長房はまた葛陂君夫人を姦淫した「東海君」を、海浜を旱魃させることによって葛陂に拘禁した。最後はどうしてだかわからないが、費長房は役鬼霊符を失い、怒りを貯め込んでいた多くの鬼によって殺された。
漢代以降、役使鬼を使う術は、ほとんど術士(呪術師)の基本的な方法とみなされていた。術士が「急急如律令」と口元でつぶやくのは、鬼神に速く行え、怠るな、と命じているのである。この呪文を念じる者は、役鬼法力を持っているかどうかでなく、実際に役使鬼神を使っているのである。
費長房の術はすでにおのように威力があることが示され、帝王や大臣は自然とそのほうに惹かれ、夢中になった。北斉の薛栄宗は自ら使鬼であると称した。北周が北斉を攻めたとき、薛は斉の後主高緯は言った、「わたしはすでに名将斛律光(コクリツコウ)率いる大隊を送って(敵を)食い止めている」と。このとき斛律光が死んですでに多くの年月がたっていた。しかし高緯は薛の話を信じて疑わなかった。
唐末に陣頭指揮を執った揚州の(名将)高駢(こうべん)は博識の方士だった。呂方士という者が丸太を切って三尺五寸の大きな足の模型を作った。長らく雨が降ってみぞれがはじめて降った夜、彼は足の模型を用いて、地面に大きな足跡をこしらえた。翌日呂方士は高駢に奏上した。「昨晩神人たちが地上で戦っていたので、私は陰兵たちを派遣し、江南まで連行していきました。すると広陵で洪水に遭い、神人たちは水没してしまいました」と。高駢はそれを聞いて二十斤の黄金を呂に賜ったという。
(3)
Ⅲ 生魂捕獲
生きている人の魂魄をコントロールするのは古代巫医がつねに用いてきた法術だ。その手法と復(よみがえり)礼はほぼおなじである。收生魂(離れていた魂を収める)はおもに治病に用いられる。もしある人が驚いて魂を失ってしまったなら、巫師はすぐに招魂(魂を呼ぶ)し、返体(体に戻す)をしなければならない。このほか、巫師はきわめて強いパワーを持つ黒巫術(黒魔術)を用いて他人を攻撃し、生きた魂を回収することがある。
太守(郡長官)の酒席で楊居士が歌姫の魂魄を招き、演奏させ酒をつがせたという故事(エピソード)を唐代の張(詩人)は書き記している。清代の紀昀(きいん)は撮魂術(魂を捉える法術)を用いて嫉妬深い女に懲罰を与えた故事を書いている。袁枚は婦女の生魂を招いて交わったという妖術を記録している。これらのエピソードから古代の士大夫が生魂捕獲術という迷信を信じていたことがわかる。
(4)
Ⅳ 自身の魂魄制御
古代道士の魂魄に対する分析は相当精緻だった。彼らは言う、「魂は人生を欲す。魄は死を欲す」。魂は陰陽半々、魄はすべて陰類に属す。魂は陰魄を制御して邪気と交わらないようにする。魂には三種あり、三魂、三命などと呼ぶ。三魂にはそれぞれ名称がある。一つは「胎光」。純陽の気を代表する。主に性命と関係する。一つは「爽霊」。主に財録と関係する。もう一つは「幽精」。主に災害や病気と関係する。最後の二つはどちらも陰気に属する。三魂は人が誕生したあと正月七日、七月七日、十月五日に分かれて人体に附着する。このあと初めて降りた日に上天に人の善悪を報告する。これは「本会の日」と呼ばれる。
このほか一度の小集会がある。甲子の日、胎光は上天し、庚申の日、爽霊は上天し、本命日に幽精は上天する。魂は人体から遊離し、魄はふたたび戻ってこないことを願う。しばしば機会に乗じて陰鬼と結託して人を病気にし、害する。
道士は三魂捕獲を、修道長生のための重要な任務ととらえ、また研究したことから多くの「拘三魂法」が生まれた。たとえば比較的簡単なものにつぎのようなものがある。夜が明ける前、三度叩歯し、三魂の名を三遍呼び、就寝時にまた名を三遍呼び、それから呪文を唱えた。
「胎光延生、爽霊益禄、幽精絶死。急急如律令!」
効果は抜群で、「毎日このようにすれば、魂が人から離れることはなく、予期せぬ災害や害鬼凶伸によって害されることはない。遊夢が変じて怪となることもなかった」。
魂魄を構成するのは三魂のほかに七魄だ。名は屍狗、伏矢、雀陰、呑賊、非毒、除濊、臭肺である。月朔(月の初日)、月望(月の十五日)、月晦(月の末日)の夕暮れ時は七魄がふらふら漂う頃である。彼らは鬼魅や屍精と結びつき、あるいは魑魅魍魎に変成して人体に害をなす。
「障害や病気になることは、みな魄の罪である。幸せな人の死は、みな魄の性(さが)である。欲深い人が負けるのは、みな魄の病である」。
このためさらに厳しい手段で七魄を威嚇し、コントロールする必要がある。魄をコントロールする方法にはつぎのようなものがある。枕をはずしてあおむけに寝る。胸の上で両手をこすり合わせる。ついで両耳をふさぐ。頭の上で両指先をくっつけて、手のひらを上にする(普通の人にはなかなかできない)。七度息を止める。鼻の先から白い霧が噴出するのを想像する。はじめは小豆のように小さいが、次第に大きくなり、それが九層に分かれ、全身を覆う。
また白い気体が天獣に変成するのを想像する。両目にはそれぞれ青龍がいて、鼻孔にはそれぞれ白虎、左足の下には蒼亀、右足の下には霊蛇がいる。体には玄錦衣をまとい、両手に火を持つ玉女がそれぞれの耳の中に立っている。観想し終わると、七度唾を飲み込み、七度叩歯し、七魄の名を呼び、呪文を唱える。
「素気(白い霧)九迥(けい)、制魄邪奸、天獣守門、嬌女執関。亡魂和柔、与我相安、不得妄動、観察形源。若汝飢喝、聴飲月黄日丹」。
道教経典中にはよく似た「魂魄の捕え方」がいくらでも出てくる。これらには煉気による経験的なものも含まれているので、まったく価値がないとはいえない[実際に内丹の魂魄を捕える法を実践しているので、ある意味価値がある]。とはいえ巫術の副産物であることに間違いはなく、魂魄活動の全体的性質のコントロールを変えるほどではない。
*<参考:化書の翻訳>
在做祭祀的时候,魍魉附身于巫祭身上,借巫祭之口预言将要发生的祸福之事。每次附身到巫祭身上时,说出的话语和食用的食物都与常人不同,而到了将要离开巫祭身体的时候,说出的话语和食用的食物与常人无异。不知道是魍魉附身在巫祭身上,还是巫祭附身在魍魉身上。于是我知道,心可以交出去由他人控制,生命元气可以被换成他人的,意识可以被他人夺取,魂魄可以被他人役使。形体是意识的居住之所,意识被形体所容纳。由此推论,还有什么是不可能的呢?