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 陰陽理論を考えるに、火災と大旱はどちらも陽気がさかんでもたらされたもの。火を滅し尽くせば救旱法術を用いることも可能だろう。しかし漢代の経師[経典を教えた教師]は特別であり、董仲舒は類似の説明をしなかった。このようであるゆえんは、ひとつには、閉陽開陰理論および関連した法術で大火を消すのは荒唐無稽なことであり、もうひとつは、董仲舒個人が遭遇したことと関係があった。

 董仲舒は『春秋』に記載された火災について全面的に論述したことがあった。彼は火災がすべて政治の不良なことから引き起こされると考えた。

 漢武帝の初年、遼東の漢高祖廟と長陵(漢高祖陵)横の高園殿で相次いで失火が起こったことに対し、董仲舒は武帝に上書を出し、これは上天が発した警告であると説いた。遼東高廟の失火は外地諸侯の不法行為と説明されるが、長陵高園殿の火事は、中央内部の一部の大臣が関わっていることと考えられた。彼は武帝に天意を尊重し、傲慢で奢侈にふける皇族や近臣に懲罰を与えるよう勧めた。この上書は反応を引き起こさなかった。

のちに董仲舒は職を辞したあと、家の中で火災と政治の関連についての研究を継続した。そして災難は天意の表れであるという推論を得て、新しい著作を書き始めた。

あるとき大臣の主父偃が彼の家を訪ねた。董仲舒は不在だったが、主父偃は中に入ってこの書の草稿を見てしまった。そこには大臣を風刺する内容が書かれていたので、主父偃は怒り、恨めしく思い、草稿を持って武帝のもとへ行った。

武帝はこの書について討論するために儒学者を一堂に集めた。討論の場に董仲舒の弟子呂歩舒(ろほじょ)がいたが、彼はこの書が師の新作と気づかなかった。彼はこの草稿を手に取ってすべてをけなした。

漢武帝は董仲舒を逮捕し、処罰するよう命じた。そして司法官吏は死刑の判決を下した。武帝は朝野で(朝廷でも在野でも)高名をとどろかせていることを考慮し、すぐに赦免の詔を出した。この風波は乗り切ったものの、董仲舒は災異についてふたたび論じることはなかった。董仲舒は滅火法術について触れるのを回避し、語ることはなかった。しかし打撃を受けたことには間違いなかった。