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 前漢の時代、経師の滅火法術に関しては空白があるが、それを埋めてくれるのが少数民族の巫師である。漢武帝太初元年(前104年)、柏梁台で火事が発生した。越族巫師「勇之」が言うには、越人の習俗では、楼台家屋から失火する場合、より高い建築物を建て、それによって火災を圧伏するという。

漢武帝はこの願ったとおりの言葉を聞いて、即時建章宮を建てる決心をした。建章宮の中に「千門万戸」が建てられ、外側数十里に虎圏(虎を養う場所)が設けられ、特大の人工湖[太液池]が造られるという雄壮な建築物群だった。


馬王堆漢墓帛書『五十二病方』に見られる噴法、すなわち噴気、噴水、噴唾によって駆邪治病をする。術士は酒や水を吹きかけて火を滅ぼす術を応用してきた。

『後漢書』「方術列伝」には郭憲や樊英(はんえい)がこの法術を利用したという記録が残っている。

郭憲は後漢光武帝建武七年(31年)光禄勲(宮殿の護衛などを担当。九卿の一つ)に任じられ、皇帝に従って南郊に行ったとき、途中で突然酒を口に含み、東北に向かって三度噴き出した。執法官不敬罪に当たるとして予懲処に送ったが、郭憲は自ら行動の説明をした。「当時斉国で失火がありまして、私は噴酒の法を用いて火災を圧伏しようとしたのです」。

のちに斉国は火災の状況を報告した。すると失火があった時間と郭憲が噴酒をした時間はぴったりと重なり合った。

 もう一人の術士樊英はすでに「風角星算」「河洛七緯」「推歩災異」などの法術を会得し、儒家の経典に通暁していた。樊英は河南壺山の麓に隠居していた。道術を学ぼうと多くの人がやってきて列をなしたという。

 あるとき学問について話していると、西方から暴風が吹いてきた。樊英は弟子に言った。「成都の市場で火事が起きている。火勢はますます盛んになっておるぞ」そう言うと、水を口に含んで西方へ向かって噴き出した。同時に弟子たちに水を噴いた時間を記録させた。

 のちにある客人が成都からやってきた。その人は言った、「ある日成都の市場で火事が起こりました。そのとき突然黒い雲が東方からやってきて、大雨が降ってきたのです。あっという間に火は消えました」。

この時間と樊英が水を噴いた時間は一致した。これによって樊英の名声は高まり、各朝廷は彼を礼遇した。