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 古代の民間には「火殃(かおう)」が火を起こすという伝説があった。火殃は回禄(かいろく 火神)と同類の神霊ではない。一種の怪物である。

 『朝野僉載(ちょうやせんさい)』に言う、「唐開元二年、衡(こう)州では五月に頻繁に火災が起こった。そのとき人々が見物していると、甕のように大きく、灯籠のようなものがあるところから火が発生していた。人々はこれを見て「火殃だ!」と叫んだ。火殃に対処するには、それを覆うか、圧する必要があった。

 明人の伝説では、ある年の夏、村人の目の前で巨大な火殃が天から落下してきた。それは沸き立ったまま庭から家の中に流れ込んできた。あわてて石臼でそれを受け止め、さらに土をかけて石臼をうめた。

 村人の死後、子孫は彼が「この盛り土を掘ってはいけない」と言い残したのに、忘れて石臼を掘り出してしまった。そして土中の黃蟻(イエヒメアリ)を燃やした結果、強烈な火炎が屋根のてっぺんにまで達し、そのあと家全体を焼き尽くした。この火殃と周密の旱魃はよく似ている。二つの伝説には関連性があるだろう。[訳注:天から落下する火殃は隕石のようでもあるが、たぎるような火が流れてくるさまは、溶岩そのものである。土に埋まった石臼を掘り出すと火炎を放つのは、不発弾のようにも見える。黃蟻は放射能物質の比喩にも思える]


 漢代以降、火災の予防のために人々は厭勝作用を持つ「海獣」を想像で作り出し、宮殿上に置いた。漢代の宮殿は火災で焼けることが多かった。ある巫師が言うには、天上に魚があり、名を鴟星(しせい)といった。鴟星を象徴する魚形のものを屋上に置くと、火災を祓い、除いた。唐代の寺院の建物に魚形の霊物が置かれているが、これは鴟星に由来するのだろう。屋根の庇の角に火を制圧する霊物としての蚩尾(しび)を置く習慣は漢代に始まっている。

 蚩尾と鴟星は、用途はおなじだが、鴟星は魚形で、蚩尾は獣形という違いがある。

 伝説によれば漢武帝が柏梁殿を建てるとき、ある人が上書のなかで述べた。「蚩尾、水の精。火災をよく避けます。堂殿に置くべきでは」。蚩尾、または鴟尾、あるいは鴟吻、螭吻(ちふん)ともいう。蚩尾の設置は皇帝と三公の特権であり、一般の官吏がおこなうのは僭越な行為とされた。たとえば陳朝の古い規定では三公だけが執務大広間の蚩尾を設置することができた。のちに陳後主は功臣の蕭摩訶(しょうまか)に公事堂と寝堂の上に蚩尾を置くことを認めた。このとき蚩尾の設置はまだ特権だったのである。

 唐代以降、これ(蚩尾、鴟尾)は次第に普及した。明代以降、物好きの文人は蚩尾を「竜九子」の一つに数えられることもあった。竜九子の名称には多くの異説があった。その中の一説は、贔屭(ひき 亀に似た動物)、螭吻(ちふん シャチホコの原形)、蒲牢(ほろう 竜に似た動物)、狴犴へいかん 虎に似た動物)、饕餮(とうてつ 羊身人面、目は腋、歯は虎、声は嬰児)、蚣𧏡(はか 水を好む)、睚眦(がいしん ジャッカルの身で竜の首)、金猊(きんげい 獅子に似た動物)、椒図(しょうず タニシやカエルに似た動物)である。これら九種の神獣はそれぞれ特性があり、所司がある。螭吻の性格は「よく呑む」であることから、「火を呑む」ために庇の上に置かれる。


 古代には(コウノトリ)や鵁鶄(サンカノゴイ)を用いた避火法術があった。王子年『拾遺記』に言う、三国時代の糜竺(びじく 劉備の義兄)は多くの宝を持っていた。ある日倉庫が火事になったが、財物の九割を搬出して焼かずにすんだ。

火がさかんに燃えているとき、見ると数十人の青衣の童子がやってきて鎮火しようとした。雲のような青気が出て、火を覆い、滅した。童子は言う、「たくさんの鸛鳥(コウノトリ)が集まって災いを祓いました。鸛鳥は水の上の巣に集まるのです」。家人は厭火用に数千羽の鵁鶄(サンカノゴイ)を集め、池で飼った。

 鵁鶄を集め厭火する法は、唐代に到り、術士から珍しいとみなされた。陳蔵器は言った、「鵁鶄、水鳥である。南方の池沢から出る。鴨に似る。緑の衣。人家これを養う。慣れると去らない。火災を厭う」。聚鵁鶄法(水鳥を集めて火に対処する法術)と設蚩尾法(ひさしに蚩尾を設けて火に対処する法術)はどちらも霊物に対する迷信や巫術中の相似法則をもとにしている。ただ前者が実際の水鳥を利用しているのに対し、後者が想像上の水精を利用しているという相違はあるが。


 滅火巫術は水と無関係ではない。ただしその水は本物の水ではなく、「画水」である。周亮工は言う、「伝え聞くところによると、家に画水を貼る人が多いという。多くは火を厭う。ゆえに古刹は壁に画水を貼るところが多い。常州太平寺仏殿の後ろの壁に徐友の画水がある。戦火のもと寺の建物は焼き落ちてしまった。しかし大きな仏殿だけは焼け残った。画の力のおかげともいう。趙州柏林寺の仏殿の後ろに呉道子の画水があり、今も残っている。われら梁人に貴賤はなく、趙州印板水を貼っている。壁の上に画水を貼らない家はない。汴水の洪水のあと、人は画水を悪兆とみなすようになった」。

 画水には水を招き、火を厭う威力があると信じられていたので、古刹が火災に遭わないのは画水のおかげと思われていたが、洪水に見舞われると、画水の罪とみなされたのである。巫術形式から見るに、画水は一種の特殊な霊符だった。