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救日法術と関係のある習俗は夏代にはすでに現れていた。『左伝』「昭公十七年」が引用する『夏書』に言う、「辰は房に集わず。瞽(ご)は鼓を奏し、嗇(けち)な大夫は馬を走らせ、庶民は走る」と。『夏書』は夏人が著したものではないけれど、夏代の習俗がよく描かれている。
「辰は房に集わず」というのは、日月の位置が不安定であること。具体的には日食を指す。日食が発生するたびに盲人楽師はいっせいに太鼓を打ち鳴らし、官吏は馬車に乗って疾走させ、庶民はやみくもに走り回る。太鼓の音、馬車の音、馬の脚音、いななきが混然一体となっている。
こうした救日法術は古代中国によく見られる鼓噪駆邪法のひな型である。いろんな音を寄せ集めて勇壮なるパワーを作り出し、天上の悪魔を圧迫し、太陽からそれを吐き出させようとしているのである。
『夏書』が描く救日礼は官吏が掌るもので、全民衆が活動に参加する。魏晋以前の伝統が保たれてきた。ただ日食は天変地異と信じられていて、救日は「匹夫有責」(民衆のだれもが責任を持つ)のこととみなされ、国家もまた救日の組織を作り、職務の一つとした。
周代以来、救日礼は夏代の古い制度の上に発展してきた。当時の救日礼には撃鼓撃柝(げっこげっき 太鼓や拍子木を叩く)や朱絲縈社(しゅしえいしゃ 赤い糸や縄を土地神像にぐるぐる巻きにすること)、置兵射箭(ちへいしゃせん 兵器を置き、矢を放つ)、祝官呪詛(祝官によって呪詛する)などが含まれていた。これらのうち前の二つ、撃鼓撃柝と朱絲縈社の影響力が大きかった。