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 救日法術の布置兵器(ふちへいき)と射撃邪祟(しゃげきじゃすい)が出現したのは戦国時代だった。

 『穀梁伝』「荘公二十五年」に言う、天子救日、樹に五面の大旗を立て、五兵、五鼓を設置する。諸侯救日、樹三面大旗、三兵、三鼓。一説によると、五兵(兵器)とは矛(ほこ)、戟(げき)、鉞(まさかり)、楯(たて)、弓箭(ゆみや)の5つ。

 『礼記』「曽氏問」の仮託された孔子が言うには、もし諸侯が天子に拝謁しているときに日食が発生したなら、諸侯は天子にしたがってともに救日活動をする。彼らは儀式中、方位に応じた色の衣を着て、応じた兵器を手に持つ。鄭玄の注に言う、救日にどんな種類の兵器を持つかは聞いたことがないと。兵器陳列による救日の礼は、後漢時代になると常用されることはなかった。

 晋人摯虞(しぐ 250300)は言う、日食のとき「太鼓の音を聞いた。臣下の者はみな赤い頭巾をかぶり、剣を携えて伺候の態勢に入った。三台(尚書、御史、謁者のこと)の令史(属官)以上は皆剣を持って戸の前に立った。衛尉卿は宮殿の周囲をまわり、守備を視察し、ふたたび周囲をまわった」。

 劉宋の頃、太史は日食の時間を計算し、その報告を上奏した。朝廷は三日前に、内外に宣布し、威厳を示した。この制度は秦代以前の兵器陳列による救日の法の名残である。


 『周礼』中、庭氏は「国中の夭(妖)鳥を掌射する」官吏。妖鳥も怪獣もその声、姿が聞こえない、見えないとき、庭氏はすなわち「救日の弓、救月の矢を用いて夜、これを射る」。救日の弓と救月の矢は、日食月食が発生したとき、「射撃邪祟」をするために用いられる。日月を解放し、救う弓矢である。

 この記述を根拠に、われわれは戦国時代末期の救日法術中にも射撃法があることに気づく。しかし当時の人は救日救月に使う弓矢を神聖視し、救日救月だけでなく、いろんな妖怪をも射撃できると考えるようになった。

 『周礼』「庭氏」はまた言う、鳥獣以外の神怪に出会ったら、「すなわち大陰の弓と枉矢でこれを射る」。鄭玄は『庭氏』を根拠に上述の救日の弓と救月の矢の組み合わせを見て、正確に「太陽の弓と枉矢」はつまり救月の弓と救日の矢を指すとみている。いわゆる枉矢とは火を帯びた火矢であり、変星、飛矛、兵矢ともいう。この種の矢はとても軽く、速度が速く、弓の尾に燃焼物がついているので、「飛行の際に光を発する」。多くは城を守るときや車の戦いに用いられる。[紀元前二千年頃にはすでに車があったという。馬車や牛車が一般的になっていった]

 救日にはかならず枉矢が使われた。おそらく救日をおこなう者は火矢を射ることが、太陽の光明がふたたび蘇るよう助けたと考えたのだろう。


 救日礼には少なからず祝官の祷祝や呪詛が含まれている。現代の人が知っている唯一の救日祝辞は董仲舒が作った「々(しょうしょう)たる大明、滅(せんめつ)して無光となる。いかにして陰が陽を侵そうか。いかにして卑が尊を侵そうか」。炤は昭と同じで、明るく輝いているさまを形容している。大明は太陽のこと。滅は消滅のこと。この呪文は董仲舒の『救日蝕文』から採られているが、もとの著作は失われてしまった。

 鄭玄の『周礼』の注解によれば、周代の大祝の際の「説法」で念じられる呪文である。「説法」とはいっても、激烈な言葉で悪神を痛罵するのだが。