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漢代以降、天文暦学が緻密になり、日食時間を推定することができるようになった。天文官は日食が日月の運行のなかで起こる規律ある自然現象であることを知るようになった。それは「何かが(日月を)食べる」のではなく、災異ではなく、政治のよしあしとは関係ないことを理解するようになった。
救日法術に対する認識は大きな衝撃をもたらした。漢代以降は皇帝自らが太鼓を打ち鳴らして救日儀礼をおこなう場面は見られなくなった。ただし無視することのできないのは、日食の科学知識は普及しておらず、大部分の人は「何かが(日月を)食べる」という神話を信じていた。
たとえば清人周亮工は『書影』巻七のなかで言う、「そもそも日月の食に関して、それが何かを知っている者がいない。それゆえ聖人の書は、これを食す、と言い、あたかも(日月を)食べるものがあるかのように言うが、その名さえ知らない。荒唐無稽なことだが、そういったものをすべて退けるわけにもいかないのである」。
周亮工はまた『春秋』の記載漏れを根拠に「日月の交わりが食になる」という証拠が不足していると断言する。
『四庫徹毀書提要』は『書影』の誤謬十余か所を挙げて激しく反論している。その一つは「日月食はもともと期間があるのに、(周氏は)これを食すものがあると強く主張する」。日月食に関して見れば、たしかに『書影』は「本質的なものを考察できていない」という致命傷を持っている。四庫館のキュレーターの批判はもっともである。
ほかにも、一部の学者は日月食に期間、規律があるのは明らかだという。ただし古代聖人の地位と天人感応学説を守るために、政治や道徳を捨てることなく、日月運行理論に全面的に頼ってもいい。
宋代の朱熹はその方面の代表である。朱熹は、日月食は「みな常度(固定的な規律)をもつ」ことを認める。つづいてつぎのように言う。「しかし王たる者は徳ある行政を修め、賢臣を用いて奸臣を追い払わなければならない。陽がさかんで陰に勝てば、陰は衰え、陽を侵すことができない。日月の運行がまさに食のとき、月はつねに日を避けようとする。ゆえに緩慢になったり、迅速になったり、上に行ったり、下に行ったりする。かならずふらつき(参差)が生じて、相対したり、しなかったりする。だからそれは食であり、食でない」。
君主の善なる行動が日月の運行軌道を変えることはできないが、参差(ふらつき)を生じさせることができる。これによって日月は相対することができなくなる。本来出現するはずの日食も出現しなくなる。いずれにしてもこの言葉は充分解釈し、考えしつくしたといえるだろう。
漢代以降、日食の迷信は弱まったとはいえ、一般人への影響はまだまだ大きかった。民間の救日の習俗はそのまま近代にいたるまで続いた。その原因はここに述べたとおりである。