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救日礼と比べて、救月活動の規模は小さかったが、行われた数は多かった。というのも、月食が人類の生活に与える影響は日食と比べると少なかったからだ。『詩経』「十月の交」にうたう。「かの月を食して、すなわちただ常のごとし。この日を食して、何と不吉なことだろう」。
月食はよく見られるが、日食はそうではなく、大きな悪い予兆と考えられた。西周の人は月食をそれほど畏れていなかったようである。しかし月が食べられるのはいいことでもなかった。そのため月食が起こったあと、やはり法術によって救助する必要があった。『周礼』はつねに救日月というように日月を並べた。しかしそれは周代に救月の法があったということである。
唐代の賈公彦(ここうげん)は「月を救うのは難しい」と考えた。それは彼自身の想像だった。『周礼』「鼓人」は言う、「日月を救うために王の太鼓を使うよう命じた」。『大僕』は言う、「およそ軍旅(軍隊)や田役(農役)は王鼓をたたえる」。『庭氏』は言う、「もし鳥や獣を見ないなら、すなわち救日の弓と救月の矢でもってこれを射る。大陰の弓と枉矢でこれを、すなわち神を射る」。こうしたことから、周代の救月法と救日法は基本おなじであることがわかる。周王は自ら太鼓を打ち鳴らし、弓矢で邪祟を射る必要がある。