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 秦代以前は雲気占法もはなはだしく流行していた。西周の慣例では春分・秋分、夏至・冬至、立春・立夏、立秋・立冬になると、国君は自ら人とともに、宮門の傍らの高台に上がり、雲気を観察しなければならなかった。記録、観察の結果から未来の吉凶を占った。当時は各国に「望国」「望祥」といった高台が建てられていた。神事のために使われたので、「霊台」と呼ばれた。周人はとくに太陽の周囲の雲気の観察を重視した。

 『周礼』の中で「視(ししん)」官は「十暉(き)の法を掌り、妖祥を観察し、吉凶を弁じた」。「十暉とは太陽の十種光気のことを言う。保章氏は「五雲の物で吉凶水旱を弁じることを掌り、降豊荒の現象を考察した」。いわゆる五雲の物は、とくに太陽の傍らの五色の色の雲気を指す。当時の人はそれが災禍か吉祥かを予示していると考えた。

「青を虫、白を喪、赤を兵荒、黒を水、黄を豊」とみなした。

 雲気占い法は秦漢の時代にいっそう普及した。

 陳勝起義軍中の将領周文(あるいは周章)は視日の法に通暁していた。視日とは「日を見るとその傍らに雲気がる」ということである。

 『漢書』「芸文志」に収録された『漢日傍気行事占験』三巻と『漢日傍気占験』十三巻はこういったことの専門の著作である。政府が組織した雲占と星占は「天官」が責任を負っている。『史記』「天官書」でも何度も雲占の方法に言及している。