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予測目的の採取措置は凶を除き、吉を呼び込んだ。星辰雲気が災禍をもたらすなら、占術を通して、あるいは災禍を予知して、どんな方法で災禍を除去するかが術士の重要課題となった。
『周礼』「保章氏」は言う、星占い、雲気占いなどによって吉凶を予測する目的は「詔救政」、すなわち周王が相応の予防と解救(危険や困難から脱すること)の措置をとらせることである。星雲の災異に対する措置には二種類ある。一つは徳を積み、善を修め、政治を改めていくこと。二つは、禳解法術(神に向かって災禍を取り除くよう祈り求める法術)を用いること。
『史記』「天官書」に言う「日変修徳、月変省刑(刑罰を軽くすること)、星変(星の異常変化全般)結和」は前者に属す。災異が出現すれば「太上(皇帝を指す)は修徳し、その次は修政し、そのつぎは修救し、そのつぎは修禳する」。すなわち二つの措置法を高低の等級にあてはめる。そして禳解法術を用いるのは下策である。
実際、司馬遷がいう下策とは、古代の帝王が好んだ除災方法である。というのもそれが簡単で努力する必要がなく、帝王の奢侈な生活を変える必要もなかったからである。
古代における星雲災異を禳除する法術には二種類の形式がある。一つは災星妖雲を直接駆除する法術。もう一つは災禍を他人や他の物に転嫁する法術。『周礼』中の「視祲(妖気を見る)」官は「安宅叙降」する。叙降とは、鄭玄によれば、「つぎの凶禍でこれを禳移すること」である。この「禳」は第一種法術を指し、「移」は第二種法術を指す。孫詒譲(そんだいじょう 1848-1908)は鄭玄注の「移」解釈を「禳できない者はすなわち転移させてもって吉とする」としているが、鄭玄の意図と完全に一致しているわけではない。
春秋時代、斉景公の御用巫師柏常謇(はくじょうけん)は禳星の術を得意としていたという。前516年、斉国上空に彗星が出現した。「彗星があれば亡国あり」という言い伝えがあり、斉景公は非常に怖くなり、柏常謇に彗星の「禳去」(除去)を命じた。のちに妟嬰が諫めて、禳星計画は中止になった。
唐朝後期、僧一行の禳星救人(彗星を除いて人々を救った)の故事が世間に広まった。『酉陽雑俎』「天咫(てんし)」に言う、一行は恩人の王姥の子を助けた。彼は法術を用いて北斗七星を丸ごと消し、そのあとこれは上天が皇帝に対して発した警告だと偽りの主張をした。心を動かされた唐玄宗は大赦を宣布した。獄に入れられていた王姥の子は最終的に自由の身となった。
僧一行は天文暦法などで貢献したと一般的に認められている。ただ彼の思想のなかに多くの神秘的概念と巫術意識が含まれていたのも事実だ。段成式が記録した「大伝衆口」(広く普及した)故事は、まったくの虚構というわけではなかった。それはかつて一行が禳星術を用いて人をだましていたことを表している。さらに唐代の大衆が術士の禳星術を信じて疑わなかったことを表している。
明清の時代の術士はしばしば禳除災星法を使った。『三国演義』のなかで諸葛亮は死の直前に禳星術をおこなう場面がある。微に入り細を穿つ描写で、読者はその場にいるような臨場感を覚える。この描写は古代伝説を取材したものではなく、作者の空想でもなく、明代の実践されている巫術だった。作者は巫師、道士の禳星儀礼の様子を目撃し、直接インスピレーションを得ていたのである。
行う禳星術が人に信じられるには、かなりの天文学的知識を持つ必要があった。春秋時代、斉国の大巫師柏常謇は、斉景公の寿命を七年延ばすと称した。法術によって寿命を延ばせるかどうかは、そもそも検証のしようがなかった。かなりの長寿を得たとなると、いっそう法術によって七年寿命が延びたかどうか判定するのは至難のわざだった。斉景公と面したとき、柏常謇は答えた。
「兆しがあることを証明できます。長寿を得たときには地震が発生します」。
長寿の儀礼を行う前、柏常謇は妟嬰に対して同じ話をした。彼は妟嬰が天文学を理解しているとは思わなかったのである。妟嬰は問いただした。
「数日前、私は維星が絶え、枢星が散るのを発見しました。これは地震の兆しです。あなたの長寿術が地震によって証明されたのです。どうぞこの天象をご覧ください」。
柏常謇はしばらく黙ったままだったが、認めた。天象を長期観測する術士はしばしば天文知識が豊富である。彼らはこの知識を利用して予言を発表し、手段を示し、星辰軌道の変化は彼らの法力によると人に信じさせた。おそらく禳星術に霊験がある秘密はこのあたりにあるのだろう。