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秦漢時代の祝官に「」という役職があった。皇帝の頭上に降りかかった災禍を各官吏や庶民に移す専門の役人だった。

『漢書』「郊祀志」は秦朝の祭祀制度について述べているが、そのなかで「祝という祝官がある。すなわち災禍があれば、すぐさま祝詞によってこれを移した」。祝のは現代の秘とおなじ。

 『史記』「孝文本記」駰『集解』が引用する応劭は言う、「祝の官、転移する。国家これを忌み、ゆえにという」。

 この祝官はほかの祝官が正々堂々と見えるところで祈り、祝するのと違い、秘密に活動をするので、「秘祝」と呼ばれる。漢代はじめに祝官設置を継続している。しかし漢文帝十三年(前167年)、廃止の詔が出された。詔書にはつぎのようなことが書かれている。

「けだし天道に聞くに、禍(わざわい)は恨みより起こり、福は徳から生まれる。百官の非、これは朕の身から出たものである。今祝の官は禍を転移する。わが不徳を示し、朕はこれを取らず、それを除く」。

 西周春秋時代の禜祭、祈禳活動は多くは祝官が担っている。ただし当時はまだ禍を転移する専門の官吏はいなかった。秦朝に祝官が設置されていたことは、移禍法術が春秋時代以降も発展していたことを示している。周代の移禍法は、おもに星雲災異に対して実施していたが、秦漢の祝は天禍の転移が中心だったのだろう。


 漢文帝が移禍法術に対する祝の廃止をおこなった影響はそれほど大きくなかった。高みから見ると、この説明は朝廷が移禍法術を二度と採用しなかったということである。低いところから見れば、祝の廃止は移禍専門の官吏を置かなかっただけで、天災に見舞われたならその他の祝官に災禍の転移を命じることを妨げるものではなかった。より実際的になったということである。

 葛洪『抱朴子』「覧」が列挙する道教経典の中に『移災経』一巻がある。その内容と移禍法は関係がある。移禍法は清代に至っても、術士が用いていた。

 『子不語』巻十三「飛星入南斗」に書く、蘇松道長官韓青厳は天文に通暁していた。彼は宝山で仕官していたとき、イナゴを捕えるために野宿していると、四鼓時分に客星が南斗に飛んで入るのが見えた。韓青厳は占いの書に「この災を見た者は一か月以内に突然死する。禳法に従って髪を切り、東西に禹歩で三周歩き、他人に禍を移すとよい」と書いてあったのを思い出した。それで彼は下僕を見つけなければならなかった。この書は法術を実施することを求めているのだ。

数日後、県の役所の文書係が理由もなく[実際は禍を自身に移して]、小刀で割腹自殺した。韓青厳はおかげで無事だった。韓青厳によると、天文がわからない者には災星を見たところで災禍に遭うことはないという。袁枚(子不語作者)は天文と禳解術を学習することに何の意味があるのかと韓青厳に質問した。それに対し彼は何も答えなかった。伝統的な法術の一部は伝える価値がないとされる。それが滅亡してしまうのはそんなに遠くなかった。韓青厳が言うように知らなければ災禍はやってこないという論法が現れたということは、移禍法術が終結したと宣言したに等しかった。


[韓青厳という人物はある夜、流れ星が南斗に入るのを見た。移禍(災禍の転移)法術を行わないと一か月以内に突然死すると占い書に書かれていたことを思い出し、禍(わざわい)を移す人を探していたところ、役所の文書係の李某が突然割腹自殺した。李某は韓の弟子のような存在だった。彼は若いが、非常に才能のある人物だった。李某は韓のために災禍を受け入れたのだった。話はこれで終わらない。子不語の作者が韓に問いただすと、天文のことを知らなければ、災禍は降りかかってこないという。ということは、天文や移禍法術のことを学べば学ぶほど災禍を呼び込んでしまうことになる。李某の死も無駄死にということになってしまう]