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張衡『東京賦』は文学言語を用いて洛陽城内の大儺礼の壮観たる場面を描写している。
「爾乃卒歳大儺、駆除群厲。(なんじはようやく年の大儺を終え、疫鬼の大群を駆除した)
方相秉鉞、巫覡操茢侲子万童、丹首玄制。(方相は手に斧を持ち、巫覡は茢、すなわち箒を、また侲子万童、すなわち駆疫をする子供たちを操り、誠意ある指導者は黒衣を着る)
桃弧棘矢、所発無的。(桃弓棘矢を放つも的はなし)
飛礫雨散、剛癉必斃。(石の礫が雨あられのごとく飛び、過労のあまり斃れてしまう)
煌火馳而星流、逐赤疫于四裔。(まばゆい火が迸って星流となり、四方に赤疫を逐う)
然后凌天池、絶飛梁。(そののち天池に昇り、空に架かる橋を越える)
捎魑魅、斮獝狂。(魑魅を退かせ、獝狂、すなわち悪鬼を断つ)
斬蜲蛇、脳方良。(蜲蛇、脳方良を斬る)
囚耕父于清泠、溺女魃于神潢(耕父を清冷にとらえ、女魃を神潢に溺れさせ)、
残夔魖与罔像、殪野仲而殲遊光。(夔魖と罔像を破壊し、野仲を殺し、遊光を殲滅する)
八霊為之震慴、况鬾蜮与畢方。(八方の神これのために震撼する。鬾蜮と畢方も同様だ)
度朔作梗、守以郁塁。(度朔で梗を作り、郁塁で守る)
神荼副焉、対操索葦。(神荼を侍らせ、葦の縄を操る)
目察区陬、司執遺鬼。(隅々までよく見て、残余の鬼を取り押さえる)
京師密清、罔有不韙。(京は静かになり、鬼どもはおとなしくなった)
[耕父は神の一種。清泠、神潢(しんこう)は河の名。夔魖(ききょ)は山怪の名。罔像、野仲、遊光はみな悪鬼の名前。鬾蜮(しいく)は水中に棲む子供の鬼。畢方は鶴に似た怪。度朔は東海中の山。梗は枝や茎を指すが、ここでは桃の杖。郁塁と神荼は門神]
張衡の描写から、後漢の大儺礼のなかで葦の箒で疫気を掃き出し、桃弓棘矢で疫鬼を射て、石ころを投げて疫鬼を打ち殺す儀法が明らかになった。
『続漢書』「礼儀志」劉昭が注に引く『漢旧儀』に言う、「方相は百人の奴隷と童子を率いて、土鼓(古代の打楽器)を叩き、桃弓棘矢を射て、赤丸五穀を撒く」。これにより駆疫活動にはさらに土鼓を打ち、赤丸(狡猾な悪人を示すため使われた赤い弾)や五穀を投げつけるなどの制鬼法があることがわかる。[訳注:節分の豆まきの源流]
全体的に見ると、漢代の儺礼は基本的に周秦の古いやり方に沿っている。たとえば『周礼』の方相氏は大司馬の属官である。彼らは一般の巫師ではなく、軍隊に属する巫師である。このことから、周代の儺礼に軍人が参加していたことがわかる。またそれとともにある種の軍事的な特性を帯びることになった。
漢代の大儺のなかで宮門の衛士と五営騎士がつぎつぎとたいまつを受け渡して疫鬼を送る儀式は、軍人の駆疫の伝統だった。疫鬼が殿門を出て、宮門から洛水に入る「逓遠逐鬼法(ていえんちくきほう」は秦代以前の古い習俗である。
劉向『説苑』「修文」は示す。「古く菑(災)がはなはだしくひどく(……)死者が多く、死体だらけのとき、急遽童子が集められた。人々は太鼓を叩き、たいまつを持ち、宮中に入る(……)そのあと彼らは里門を出て、邑門を出て、野外に至る。彼らは匍匐してこれを救う」。手にたいまつを持ち、次第に鬼を追いやっていくさまは、たしかに漢代以前の古いやりかたである。
周秦の儺礼と比較して、漢代の儺礼は新しい特徴を持つ。周秦の儺礼は国儺、天子の儺、大儺の三種があった。漢代に至ってこの三つが合わさって一つになった。高誘注解『淮南子』「時則訓」によれば「国難」は「現在の駆疫駆除である」。「大儺」は「今の陽を導くための逐陰駆疫である」。ただ彼は「天子の儺」に対応する漢代礼俗には触れていない。可能性として考えられるのは、後漢の時期に独立した天子の儺がなかったということである。漢代以降、もともと季春(三月)に挙行する国儺と仲秋に挙行する天子の儺は廃絶するしかなかった。伝統的な儺礼は事実上年の終わりの大儺だけだった。
漢代の儺礼を反映したもう一つの動向は、年の瀬の大儺が「逐疫」の名のもとに多くの要素が詰め込まれ、逐疫を核心とするも、疫に限らない一切の悪鬼を駆除する儀礼になっていたことである。たとえば宮廷の大儺で呪詛に使われる呪語の「虎」は、疫病とそれほど深い関係にあるわけではない。「不祥」と「咎」も広く知られているが、疫病とまったくおなじではない。これらの悪鬼は漢人に引っ張ってこられて、斬られたり、追い出されたりしている。
駆除される対象が増えるにつれ、鬼を追いやるために請来される神霊も、自然に増加する。たとえば十二食鬼神獣舞は、逐鬼の増加に応じて加わった漢代儺礼の演目である。