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東晋の時代、都の建康で毎年臘月三十日に儺礼が挙行された。駆疫をする者は「集まって群れを成し、夜を通して暁(あかつき)まで、家から門まで、送り出した」。人となりが自由人の名士孫綽(そんしゃく)は楽器を取り、面具をつけて、大隊に混じって駆疫をし、大司馬恒温の家で悪鬼を駆逐した。
梁朝曹景宗は「酒と音楽が好きで、臘月(十二月)家の中で、野呼をして鬼を駆除するために、酒食を求めた」。「野呼」あるいは「邪呼」とは、駆鬼の際に太鼓を打ち鳴らして大騒ぎをすることである。
曹景宗は臣下に儺人に扮させ、「野呼逐除」をさせた。これは本来遊戯にすぎなかったが、一部の者はこの機に乗じて女性を凌辱し、財物を略奪したので、都全体に悪名が轟いた。のちに年末の儺礼が「野雩戯」と呼ばれ、誤って「野雲戯」とも呼ばれたが、「野呼逐除」が訛って変化したのである。
以上の史実から年末の儺礼に重要な変化が発生したことが明らかになった。
その第一。東晋南朝時代、儺礼をおこなう者は家を一軒一軒まわり、鬼を逐った。受け入れた家族は鬼と戦う人のために酒食を提供し、感謝の意を表した。
第二に、迷信意識が薄弱になり、儺礼の厳粛さが低下してしまった。多くの人が「野呼逐除」を娯楽活動とみなすようになった。駆疫儀式も風化して、中身のないものになってしまった。
第三に、鬼と戦う者の身分が一挙に落ちて、乞食に成り果ててしまった。そのまま発展して、唐代以降は、年末に駆疫活動を専門にするのは貧乏人と乞食になってしまった。