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儺礼の形式は時代によって推移してきた。梁朝には金剛力士遂疫礼、唐代には儺翁儺母遂疫礼、宋代には埋祟と打夜胡の挙、清代には跳竈王と跳鍾馗活動があった。これらの儀式はどれも臘月に行われた。当時もっとも流行った神霊が駆鬼の主力だった。
宗懍(そうりん)『荊楚歳時記』は言う、梁朝では十二月八日を臘祭の日とし、毎年この日になると、「村人は細腰鼓を打ち鳴らし、胡公頭をかぶり、金剛力士を作って疫を逐った」。この胡公頭は仮面である。金剛力士は仏教の名詞であり、手に金剛杵をもつ力士である。儺礼はもともと中国の土俗であるが、梁朝の人はインドの金剛力士を打鬼者の列に加えたのである。
唐代には鍾馗に扮する「駆儺」に習俗があった。鍾馗信仰がさかんになったあと儺礼が生まれるという一大変化があったのである。唐人李綽『秦中歳時記』によれば、毎年大晦日に儺礼が挙行され、儺をおこなう者は「いずれも鬼神のようになった。鬼神は二人の老人で、儺翁、儺母と呼んだ」。儺翁儺母はあまたの駆疫神仙の首領で、彼らの身分は秦以前や秦漢時代の儺礼の中の方相氏に相当した。違ったのは、彼らが演じたのが一対の夫婦の神であった点である。
宋代の宮廷内の儺礼と民間とでは、表現形式に大きな違いはなかった。宮廷儺礼は「埋崇」と呼ばれた。それは漢代の儺礼の儀法を多く継承していた。北宋の頃、大晦日になると、禁中で大儺儀式が行われた。大儺に参加するのは禁中の官兵と御用芸術家だった。
「諸班直(随駕衛兵)は仮面をつけ、刺繍を施した衣を着て、金槍、竜旗を手に持った。教坊使(管女楽の官員)孟景初は立派な体躯の持ち主で、金メッキの銅の鎧をまとって将軍に扮した。鎮殿将軍(体格で選ばれる御殿の衛兵)の二人は鎧兜をまとって門神に扮した。教坊「南河炭」は醜悪で太った判官に扮した。また、鍾馗、小妹、土地神、竈神など千人以上が何かに扮した。禁中で祟りを駆逐したあと南薫門(汴梁外城門)から出て、竜湾で転じる。これを「埋祟」という。そして終了する」。
南宋の時の宮廷儺礼もほぼ同じである。宮廷儺礼の各神霊の役目と漢代大儺中の十二神獣も同じである。儺を行う人々が門を出て「埋祟」を行うが、それは漢代の「伝火棄洛中」が儀演(演出された儀式)化したものである。