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 宋代の民間の儺礼は「打夜胡」と呼ばれた。臘月に貧民や乞食によって各家で駆鬼がおこなわれた。梁朝の「あまねく人家に酒食を乞う」の遺風である。北宋の頃、十二月になると、汴梁城内に「貧者三人ほどでひとまとまりになって、婦人や神鬼に扮し、銅鑼を鳴らし、鼓を叩き、家々をめぐって銭を乞うた。俗にこれを打夜胡と呼ぶ。また駆祟ともいう」。

この習俗は南宋の頃から変わっていない。文献に記載されていないので、「夜胡」がどういう鬼怪であるかは不明だ。ある人は、夜胡は夜狐の訛りだというが、信じられる説ではない。むしろ「打夜胡」が「野呼逐除」の訛ったものとする説のほうがありうる。「夜胡」は「野呼」「邪呼」であり、現代人の「咋呼」(呼びかける)に近く、もとより鬼怪の名ではない。

のちの人は意味がわからず、耳にした打夜胡の説を取り、夜胡を、打たれる悪鬼とみなすようになった。

これと対比されるのは、儺字の変化である。儺はもともと駆疫の意味だが、のちの人は駆儺という言い方をするようになった。そして駆儺の儺が一種の鬼怪と誤解されるようになってしまった。


清代の跳竈王(ちょうそうおう)と跳鍾馗(ちょうしょうき)の習俗が三千年もつづいた儺礼の最後の一幕である。褚人獲(ちょじんかく)『堅瓠(けんこ)続集』巻二に収録されている儺礼の変遷についての文のあとに一文が付されている。「今、呉中では、臘月一日に儺を挙行し、二十四日までつづけられる。行うのは乞食である。これを跳竈王という」。

 顧禄『清嘉録』巻十二にはさらに詳しく記される」。「(十二月)月朔、乞食が三、五人と一隊を組んで、竈公竈婆に扮し、それぞれ竹枝を持ち、庭で騒いで銭を乞う。二十四日までおこなう。これを跳竈王という」。

 顧禄はまた呉曼雲『江郷節物詞小序』を引用する。「杭(杭州)俗跳竈王、臘月下旬乞食は顔に墨を塗り、街市を跳び歩き、お金や米を乞う。詩に言う、司命(生命神)の名を借りて郷儺(迎神駆鬼)をなす。酔わずとも踊り続け、派手な仮装を嘲笑される。ただ袋は集まった銭ではちきれんばかりだ」。

 跳竈王の人はお金と物を乞うばかりだが、喜んで嘲笑を受け入れる。この点は秦代以前や秦漢の時代とはえらい違いである。跳鍾馗と跳竈王は同じ系統に属するが、駆鬼の主役は竈王から鍾馗に代わっている。

 顧禄はまた言う。「乞食が壊れた甲冑をまとって鍾馗に扮する。家から家へ踊りながら訪ね、鬼を逐う。また(十二月)月朔に開始し、除夕に終わる。これを跳鍾馗という。周宗泰『姑蘇竹枝詞』に言う。破れた帽子をかぶり、ぼろぼろの衣を着ているが、一万両の黄金(春節のとき黄金万両の字を貼る)があり、進士試験のための香を焚き、切れのいい宝剣で鬼を斬る。意外にも護国の心があり、忠誠心もある」。

 周詩には、鬼を駆逐するぼろぼろの衣裳を風刺している。周秦、前後漢代、儺礼は厳粛なものと受け止められていたが、唐宋以降はいとわしい乞食に演じさせるようになった。儺礼の末路は大衆の信仰の喪失だった。人々はそれに対する情熱を失い、それが歴史の舞台から退場するのは必然だった。