(2)赤小豆禳疫呪法
漢代大儺礼で赤丸を投げる儀というのがあるが、この赤丸は赤小豆から作ったものかもしれない。漢代以降、赤小豆禳疫法にはおもに三つの形式があった。すなわち服用、豆まき、両者兼用の三種である。
葛洪『肘後方』に言う、井戸に置いた赤小豆が泡を発すると、それを服用すれば疫を避けることができると。「正月七日、新しい布袋にいっぱいの赤小豆を入れ、井戸に三日置く。取り出して男は七粒、女は二十七(十四)粒服用する。その年はずっと無病である」。
またこうも言う。「正月元旦、東に向かい、虀水(さいすい 漬物水?)で赤小豆三十七粒を呑めば、一年諸病と無縁である。また七月立秋日、西に向かい、井華水(早朝一番に汲んだ泉水。鎮静効果あり)で赤小豆七粒を呑む。秋の間痢疾に冒されない」。
生の赤小豆を呑み込むのは簡単ではない。のちに一部の地区ではかわりに赤豆粥を食べた。『荊楚歳時記』に言う、「冬至の日、日影を量り、赤豆粥を作り、疫を祓った」。
赤小豆には薬用成分が含まれていた。らだしそれによって疫を駆除するのは巫術的な意識によるものだった。杜公瞻注に言う、「共工氏、才のない子あり。冬至の日に死んだ。疫鬼のために赤小豆を畏れる」。赤小豆、赤豆粥は疫を祓うという観念が基礎にあった。後代の医家は赤小豆を用いて難産や無子(不妊症)を治療した。どれも今なら巫術とみなされるだろう。
上述の『竜魚河図』の「除夜の四更に、二七の豆子(まめ)、二七の麻子(苴麻)を取り、家人は頭髪を少し取り、麻、豆と合わせて井戸につけ、井戸に呪語の勅令を出した。その家族は一年にわたって傷寒(腸チフス)に遭うことがなかった。それは五方の疫鬼を避ける方法だった。これは葛洪の呑豆除癘法(とんとうじょれいほう)のバリエーションである。井戸に小豆を投げつけるのと、赤小豆でいっぱいの新しい袋を井戸水の中に置くのとは、基本的に同じである。ただ環節生物(ムカデなど)のほか麻子(大麻の実)や頭髪を服用することがなくなっていた。
孫思邈豆を服用する古いやり方は継承していた。たとえば「赤小豆でいっぱいの新しい布袋を井戸に入れ、三日間置く。それから出して、家で二十七粒服用する」「七月七日に家族で赤小豆を呑む。日に向かい二十七粒呑む」。また二つの方術を統合して、服用し、かつ投げ入れる新しい方法を案出した。「まさに麻子、赤小豆各二十七粒を呑み、各二十七粒を井戸に投げ入れた」。
赤小豆禳疫法は井戸と関係している。古代の術士は井戸を疫気の発生源の一つとみていた。梁朝の頃、葦のたいまつで井戸や厠を照らすと百鬼が逃げていくという観念があった。これは小豆投井法(小豆を井戸に投げ入れる呪法)と相通じるものがあった。古代には多くの除疫法が流行した。らろえば「臘月臘夜、人に山椒を持たせ、井戸の傍らに寝かせ、人と言葉を交わさせない。井戸の中に山椒を置くと、伝染病を除くことができる」「女人に附子(トリカブトの根についている塊)三粒、小豆七粒を井戸に投げ入れさせる」「附子三粒、小豆七粒、女人に投げ入れさせる」「つるべ縄を七寸ほど切り、ひそかに病人の床の下に入れる」などの法術があった。どれも厭勝水井(井戸)と関係がある。