古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第3章
9 敵を防ぎ、武器を退ける呪術
(1)
古代社会の末期、単純な氏族間の闘争は発展し、部落連盟間の大規模な戦争に発展した。戦争の勝敗を決定づける要素は次第に多くなり、結果を予測するのはいっそう難しくなった。こういうときに人は巫師に助力を乞うのである。伝説によれば黄帝は蚩尤(しゆう)との大戦の際に、銅頭鉄額の蚩尤族人にまったくかなわず、最後は「天が派遣した玄女から黄帝に授けられた兵信神符」によって蚩尤を制圧することができた。
別の神話によれば、大戦の間、「蚩尤は風伯雨師に要請し、たいへんな暴風雨をもたらした。それに対し、黄帝は天女を呼び、魃(ばつ)に命じて雨を止めさせ、ついに蚩尤を殺した」。
もしこれらの神話にある程度の歴史的背景があるとするなら、当時の戦争では双方とも巫術(呪術)を使用したはずである。蚩尤は風伯雨師に要請して風を興し、雨を作ったはずである。その実態は、自分たちの巫師を招き、風神、雨神に戦いの幇助を依頼したはずだ。一方の対立する黄帝は女巫に玄女を招かせ、女魃に蚩尤を攻撃させたはずである。
春秋時代、晋国軍隊は戦いの前に戦祷儀式をおこなった。参戦者が宣誓したあと、戦車から跳び下り、祖先あるいは社神牌の前で「無絶筋、無折骨、無面傷、もって大事に集う」といった類の祷詞を念じ、神霊の保護と自身の安全および自軍の勝利を願っただろう。当時の礼制から考えるに、国君は軍を率いて出征するとき、最高祝官は軍の行動に従い、社主を奉持する必要があった。作戦期間中も祝官の責任は大きく、こうした「戦祷」活動を組織しなければならなかった。
(2)
系統的で巫術性のある御敵(敵を防ぐ)儀式は、戦国時代にさかのぼり、鬼神を信じ、城を守るのが得意な墨家学派が創設したものである。『墨子』「迎敵祠」に言う、敵を迎撃し、前に進むためには以下の活動が必要とされる。
第一、五行の理論を考え、方神を祭祀する。
敵が東方から来れば、東壇で神を祭る。選ばれた八名の八十歳の老人が主祭し、鶏を犠牲として祭る。壇の高さは八尺、堂の奥行は八尺、壇上には長さ八尺の高さの青旗青神が八方に立つ。八つの弩(いしゆみ)を設置し、八連射する。将校は青の軍服を着なければならない。
敵が西方から来れば、西壇で神を祭る。選ばれた九名の九十歳の老人が主祭し、羊を犠牲として祭る。壇の高さは九尺、堂の奥行は九尺、壇上には九方に高さ九尺の白旗素神が立てられる。九つの弩級を設置し、九連射する。将校は白の軍服を着なければならない。
敵軍が南方から、あるいは北方から来れば、五行の定式によって相応の技法を採用することになる。
第二に、巫師の祈祷と卜者の占い。望気者は雲気[体内の濊濁の気]を観測する。「これを心得た者は、成功と失敗、吉と凶を知ることができる」。予測結果は、守城の主ひとりが知る。城内の巫師と望気者は分かれて集中して居住させ、監視およびコントロールがしやすいようにする。
第三に、各種勝敵儀式の実施。君主は大衆を率いて宣誓を終えると、射手は敵軍を象徴する目標に向かって三度矢を放つ。そのあと祖先に敵と戦って勝利を収めたと報告する。いわゆる「告勝」(勝利報告)である。太鼓の音がとどろくなか、役夫徴発を担当する役司馬が正門の右側に蓬矢を放つ。矛を持つ士(大夫と庶民の間の階層)が刺殺する動作を三度見せる。また弩(いしゆみ)で敵軍に矢をうちこむ。軍の佐官は正門左側で兵器をふるう。つづいて象徴的に木石を発射する。最後に祝史(祝官)、宗人(古代官名)によって、蒸籠(せいろう)で社主(社稷の神)を覆い、社神に告勝(勝利を告げる)する。
以上の三つはどれも巫術行為である。蔡神儀式と現実に直接関連した儀式のなかでも「齢九十の九人の主祭」の類の神秘的儀式をおこなうとき、すでにそれは事実上の巫術行為である。占いや望気術[雲気を観察して吉凶を予測する方術]は予測巫術に属し、古代の軍事専門家への影響はきわめて大きかった。
第三の勝敵儀式は模倣巫術に属する。戦いの前に敵に戦勝する場面を予測して演じる。あるいは神霊に向かって勝利を得たと宣言する。これによって戦争中に(予測と)同様の結果をもたらす。
『尚書』「牧誓」の「そろって四伐、五伐、六伐、七伐、いっせいに止まって」は、研究者によれば戦闘の前の舞踏だという[伐とは、刺し殺す動作]。『迎敵祠』と比較分析すると、この種の戦闘前舞踏は模倣巫術的性質を持っていると言えるだろう。「射三発」「矛三発」などは戦闘準備ではなく「告勝」であり、一般的な軍事演習とそれほど変わらない。「蒸籠(せいろ)で蓋をする」の意味は不明だが、一種の厭勝の術であることはまちがいない。
(3)
前漢時代、漢朝と匈奴の戦争中、双方とも御敵巫術を使用した。匈奴が用いたのは縛馬術と祝詛術である。彼らは前脚と後ろ脚を縛った軍馬を漢軍支配下の城内に放ち、叫ぶ。
「秦人よ。若駒をくれてやろうぞ!(我丐若馬!)」。当時の匈奴は漢人を旧称の秦人と呼んでいた。漢の軍官がこのことを朝廷に報告すると、漢武帝は大臣らを招集し、討論した。ある人の認識では、匈奴が自ら馬を縛るのは、彼らにとって不祥の兆しだという。またある人の認識では、匈奴が馬を放つのは虚勢を張っているのであり、彼らの内心は虚弱で、財力も不足しているという。のちに漢軍は匈奴のスパイを捕えた。彼が話す縛馬の狙いと漢人が想像していたものとはまったく違っていた。それは「呪詛軍事」の法術だった。呪詛によって漢軍の軍馬をみな縛り上げ、漢軍の攻撃力と戦闘力を奪ってしまおうというのである。俘虜が言うには、匈奴人は漢軍が征伐にやってくると聞き、先に巫師を派遣し、漢軍が通過する道路や河川の下に牛や羊を埋め、呪術をかけた。匈奴の単于は漢朝皇帝に馬皮を送ったが、それらはあらかじめ巫師によって呪術をかけられていた。
これは珍しい話ではなかった。漢武帝は巫師に命じて匈奴各国に対する呪詛を実施させた。太初元年(前104年)、漢軍は大宛を討伐し、武帝は丁夫人[皇后。前141~87?]や洛陽の虞初[文筆家。前140~87]に匈奴や大宛を方祠[方士が建てた祠]で呪詛するよう命じた。丁夫人の名丁は、彼女が越の一族の後裔、巫術世家であることを示している。彼女は「(呪)詛でもって軍功を為した」とされる。この前後に何度も祠詛をおこない、戦いを助けたと言われる。
このほか元鼎五年(前112年)、漢軍が南越を討伐したとき、漢武帝は何種類もの厭勝儀式をおこなった。そのときの厭勝霊物には、日月、北斗、登竜などの画があった。牡荊(ぼけい)を旗ざおとする霊旗もあった。
(4)
南北朝の頃、著名な術士陸法和[南北朝期の道教・仏教に通じた江陵百里洲の術士]と綦母懐文[きぶ かいぶん 南北朝期の冶金家。襄国宿鉄刀で有名]。陸法和は仏教居士で、梁朝では神人と目された。梁大宝二年(551年)、陸法和は蛮族の弟子八百人を率いて梁湘東王蕭繹(しょうえき)を助け、侯景の部将任約を打破した。戦役中陸法和の法術はすこぶる霊験があったという。のちに蕭繹は皇帝(梁元帝)となり、陸法和は郢(えい)州刺史などに任じられた。しかし大宝四年、北斉高洋が梁の中心地江陵を攻めたとき、陸法和は敵の法術を破ることができず、戦闘が始まる前に郢州吏民を連れて投降してしまった。高洋に会いに行く準備をしていたとき、陸法和は「下馬禹歩」をおこなった。するとそばの人が彼は「万里帰誠」の降将のように見える、もはやふたたび法術を語る資格はない、と指摘した。
もうひとりの術士綦母懐文は陸法和と比べるとわずかに早い。武定元年(543年)、東魏と西魏が邙山(ぼうさん)で戦っているとき、高歓率いる東魏軍が赤旗を掲げ、西魏軍が黒旗を掲げた。道術はすぐれているので、高歓は幕下(ばっか)の綦母懐文のもとを訪ねた。そこで赤は火の色で、黒は水の色である。水は火を滅すことができる。それゆえ東魏軍は旗の色を赤から黄色に変えるべきである、と学んだ。土でもって水を制す、である。高歓はそれを聞いてすぐ旗を土黄色に変えた。綦母懐文はこういった法術を会得していたので、信州刺史に任命された。
おおよそ漢代頃から、陰陽五行学を根拠とする六甲や六壬、遁甲といった微細な予測術が考え出されはじめた。これらは紙上の談兵、盤上の談兵の技法(六壬、遁甲は軸の周囲をまわり、上下が対称でない円盤の予測で吉凶を占う)であり、将軍が欲する遊戯であって、もともと害をもたらすことはなかった。しかしこれを真剣に用いて作戦を立てる人も現れるようになった。
靖康元年(1126年)、宋都汴梁[現在の開封市]は陥落し、金人に取り囲まれた。宋軍は、しかし、巫術に頼ってこの危機を脱しようとした。丙辰の月[閏十一月]、妖人[妖術使い]郭京は六甲法を用い、京城の守御人全員に下城[京城から出ていくこと]を命じ、宣化門を開け放ち、金軍に向かって進撃するよう命じた。しかし宋軍はあえなく大敗した。郭京は厳罰を恐れ、あらたな下城の命令だといい加減なことを言って、人馬を連れて逃走した。
(5)
元末期の至正十一年(1351年)、元朝は方国珍を討伐するために大軍を派遣した。このとき方国珍軍に「風を呼び、雨を喚(よ)ぶ」ことのできる人がいるともっぱら評判になった。そのため元朝大臣らは推挙された松江の術士謝暘景(しゃようけい)に戦争に助力するよう要請した。元の総兵官は松江知府へ送る要請文をしたためた。
「軍事行動を決断するため、尋常ならざる人を訪ねる必要があります。上帝に報告するので、まさに世のためになるのです」と地方官に謝氏に協力してもらうよう要請した。謝氏は前線にやってきたが、「その術はまったく効果がなかった」。結果は元軍の大敗だった。
清代のモンゴル・ラマはつねに巫術でもって戦いに参加していた。ラマは呪詛の術を持っていて、モンゴルで争いが起きたとき、弟子たちに『黒経』を誦させた。ときには効果があった。しかし担当した蕃僧が自ら斃れることがあったので、それは邪術だったのだろう。批評する者は言う、「強大な国ではあるが、威徳(威厳と人徳)で勝つことができなければ、敵を制圧するためにわずかばかりの異術を会得しようとするのは、志が低いというものである」。
御敵法術のたぶらかす力は主に、その安全省力(安全でかつ力をセーブすること)から来ている。古代術士によって直接伝えられてきた「布豆成兵馬」(豆をまいて兵馬となす)の神話がある。明清の民間秘密組織に流行したいわゆる「切り紙兵となす」の法術である。豆兵・紙兵でもって敵を制し、勝利を得る。つまり代価がきわめて少ないのに、大きな効果を得ることができるのだ。この神話ではつねに打ち破られるかもしれないけれど、依然として人の心を動かすことができる。
つぎに御敵術と関係のある辟兵法術を見てもらおう。この種の法術を使用して、兵器による傷害を避けることができる。はなはだしくは、相手方の兵器の向きを逆にして、相手方に傷害を出すことができると術士は認識している。
御敵術は敵方の将兵を厭勝することに重点を置き、辟兵術は敵方の武器を厭勝することに重点を置いている。御敵術は敵方の集団を消滅することを意図し、辟兵術は自軍の個人の防衛のために用いられる。当然のことながら、辟兵術は御敵もおこなうので、両者の間には厳密な境界線があるわけではない。
『漢書』「芸文志」中の兵陰陽家[四大兵家の一つ]には『辟兵威勝方』七十篇の著作があり、一部は辟兵について述べたものであり、一部は勝ちを制することについて述べたものである。
(6)
秦代の竹簡『日書』に裁衣法の記述があり、裁衣の時期と人事の吉凶との間に関連があると述べている。そのなかにつぎのような一文がある。「丁酉材(裁)衣、衣常(裳)以西、有(又)以東行、以坐而飲酉(酒)、矢兵不入于身、身不傷」。大まかな意味は、丁酉(ていゆう)は衣裳を裁つのによい日だ。裳裙(はかま)をはいてまず西に向かい、そして東に向かって進んで、のちに座って酒を飲む。すると鋒(ほこ)、鏑(かぶら)、矢による傷害を免れる、ということである。
馬王堆漢墓から出土した壁画には避兵儀式の様子が描かれている。学者はこれを神祇図、あるいは避兵図と呼んでいる。この図の上段の中央に太一神が、その左右に雷公と雨師が描かれる。中段には四人の「武弟子」が描かれ(そのうち三人が手に武器を持つ)、下段には三匹の竜が描かれる。
図全体の題のほか、個別の図像に説明の文字が付されている。総題は「百兵莫敢我傷」で、武弟子の図像には「百刃莫敢起」「我虒裘(しきゅう)、弓矢毋敢来」という説明の題字が付されている。これらの図の内容は辟兵と関連があることを示している。
題字にはまた「即左右唾、径身(行)毋顧。太一祝日 某今日且□□」と記される。これよりこの壁画は辟兵儀法と呪語に関するものであることがわかる。「即左右唾、径身(行)毋顧」とは、「百兵莫敢我傷」などの呪語を唱え、左右に唾を噴出し、直行して顧みない。ついで「太一神」と念じる。
漢武帝は南越を征伐するとき、何度も兵祷儀式をおこなった。この帛画は鼙祷の様子が描かれているので、兵祷図と呼んでもいいかもしれない。それ自体は辟兵霊物というわけではけっしてなく、ただ「導引図」「禹蔵図」のように辟兵儀式をどのようにおこなうか指導する図なのである。
この推測から考えると、当時の兵祷儀式のなかで人が太一神と雷公雨師に扮し、それぞれ辟兵の呪語を念じた(図の題はほとんどが呪語)と思われる。また四人が「武弟子」に扮した。その役割は儺(ついな)の礼の中の侲子とほぼおなじである。そのとき辟兵の呪語を唱えなければならない。兵祷の場所にはまた三匹の竜を置かなければならない。
兵祷儀式にはなぜ雷公、雨師、神竜を請来しなければならないのだろうか。蚩尤と黄帝が戦ったときの「風伯・雨師に請願して大風雨を招く」神話を思い起こせば、理解しやすいだろう。
湖北荊門橋の戦国時代の墓から「兵闢太歳」の銘文と太歳神像の銅戈(どうか)が出土している。この銅戈の図像と兵祷図の太一神図像はよく似ている。これが意味するのは、神に扮し、辟兵御敵の祈祷をし、呪語を唱える儀式は戦国時代にはすでに流行していたということである。
(7)
北斗星から克敵制勝(敵を克服し、勝利を得る)の神力を獲得することができるという認識は、漢代の術士の間で広がった観念だった。新朝天風四年(17年)、各地みな「ことごとく盗賊となる」といったありさまで、王莽政権は末路を迎えようとしていた。
この年の八月、世の兵器を圧伏するため、自ら南郊へ行き辟兵霊物である「威斗」を鋳造した。「威斗なるもの、五石銅で造った北斗のごとき形の、長さ二尺五寸の兵器である。これによって衆兵に厭勝せんと欲す」。五石銅とは、五色の薬石と銅鉱石を混ぜて練成した銅である。
威斗を鋳造したあと、王莽は司命官に時に応じてこれを背負わせて護衛をさせた。出門のとき、彼らは威斗を背負って先導し、宮廷に入るとき、彼らは威斗を背負い、王莽の左右に侍って護衛した。王莽はこれが北斗の象徴であり、衆兵に厭勝する霊物で、すべての刀剣による傷害、とくに刺客の襲撃から身を守ってくれると信じていた。
漢代の術士は、カエルは雨を求めるときに用いられるほか、辟兵や解縛に効能があると認識している。『淮南子』「説林訓」には「鼓造辟兵、寿尽五月之望」とある。鼓造とはカエルのことだ。漢代の人は五月十五日にカエルの羹(あつもの)を飲めば(食べれば)辟兵(戦乱を避けること)ができると信じていた。それゆえ「五月之望[望は旧暦の十五日、あるいはその満月]」になるとカエルを捕えて殺した。カエルは辟兵という利点があるからこそ用いられたのであり、それによって永寿を享受するわけではなかった。それゆえ五月望日が固定された死期となった。
『淮南子』とおなじ作者らによって書かれた『淮南万畢術』によると、五月五日に喉の下に「八」字のあるカエルを捕え、その四つ足を縛り上げて陰干しする。百日後、カエルをすりつぶして粉にして、五色の袋の中に入れる。縛り上げられた人が頭上にこの袋を載せ、自ら脱する。後漢の人が編纂した『神農本草経』にもおなじ内容のものが記されている。
カエルの辟兵術は魏晋南北朝の時代になるとさらに広く伝わった。当時の人はヒキガエル、すなわちガマが辟兵にもっとも効果があると考えていた。晋人の伝説ではヒキガエル辟兵術には少なくとも二種類あった。
一つは、月食の時に喉元に八の字がある三歳のヒキガエルの血で文字が書かれた刀剣。つまりガマの血で刀剣に文字や護符を書くこと。
もう一つは、陰干しした肉芝を身に着けて携えること。「肉芝とは、万歳のヒキガエルのことである。頭上には角があり、喉元にここでもまた朱書きの八の字が見える。五月五日の日中に(このカエルを)取り、陰干しにして百日、その左手で地を描き、水を流す。また身体にその左手を帯びて、五兵を辟(避)ける。もし敵が射たとしても、弓・弩の矢はことごとく向きを変えて自らに向かうだろう」。
後者の法術は五月五日にヒキガエルを取ることを強調している。そしてカエルの喉元に八の字があることを要求している。取ったカエルを百日陰干しするという処理方式は継承され、漢代の解縛術につながっている。晋代以降ヒキガエルを取る日は五月五日に固定されている。『荊楚歳時記』に「五月五日、俗にこの日ヒキガエルを取り、辟兵となす。六日、すなわちカエルを用いず。ゆえに六日カエルと呼ぶのはこれを起源としている」と述べている。五月六日のヒキガエルは完全に辟兵に対して効能をなくしている。ゆえに世の人は「六日カエル」を無用の長物のたとえとした。
(8)
漢代に流行した五彩帛(絹織物)や五彩糸は多大な影響を及ぼし、そこから辟兵術[兵器による傷害を避ける法術]が生まれることになった。(詳しくは第2章10節を参照)
晋代に至って葛洪は伝統的な辟兵法術を系統的にまとめた。『抱朴子』「雑応」には十数種の辟兵法を紹介していて、上述のヒキガエル辟兵法以外に5種類の方法を挙げている。
(A)臨戦のとき北斗神、日月神の名を書写する、あるいは黙誦する。「ただ北斗の字および日月の字の書を知るだけで、白刃を畏れなくなる」。『太平御覧』巻三三九に引用する「ただ北斗の姓字および日月名字、白刃を畏れないことを知る」の意味がさらに鮮明になる。道士介象が呉王孫権にこの法術を伝授したとのことである。孫権は側近数十人にこれを試させて、つねに彼らが敵陣に突撃しても、「みなケガひとつしなかった」。
(B)兵器の神の名を唱える。この系統は葛洪の師鄭隠が伝えたものである。弓矢、剣、戟(げき)、それぞれに名称があり、臨戦時にはそれを小声で唱える。これは辟兵の効果が見込まれる。(詳しくは第2章14節参照)
(C)神符を身に着ける。「五月五日に赤霊符を作り、心臓の前に着ける。あるいは丙午の日の日中、燕君、竜、虎の三嚢符を作った」。ほかにも辟兵霊符はたくさんあり、そのなかでも牡荊を取って六陰神符を作り、符は敵人を指した。漢代から伝えられてきた。
(D)神薬を使用する。「傅玉札散、浴禁葱湯」「帯武威符、蛍火丸」。蛍火丸はよく知られている。「雄黄、雌黄各二両、蛍火、鬼箭、蒺藜(しつれい)各一両、鉄槌の柄の黒焦げ、鍛炉中の灰、羖羊(こよう)の角一分、小麦粉のように粉末にした九物を鶏卵の卵黄と雄鶏の鶏冠の血と混ぜ、丸めて杏仁(アンズの種)ほどの丸薬にする。五つの丸薬を作り、深紅の三角袋に入れる。この袋を左腕に貼る。従軍するときは腰に下げ、家にいるときは屋内に掛ける」。この丸薬によって、五兵白刃[五兵とは刀、槍、剣、戟、斧]、盗賊凶殺(盗賊や殺害)を避けることができる。また百鬼、虎狼、蚖蛇(がんじゃ)、蜂虿(ほうたい)などの悪獣毒虫を取り除いた。伝え聞くところによれば、この処方は伝説的神仙務成子が作ったもので、のちに道士尸公[尹公]から漢冠軍将軍であり武威太守の劉子南に伝えられた。劉子南は「神効」を試してみた。漢末の青牛道士封君はこの処方を皇甫隆に伝え、皇甫隆は魏武帝曹操に伝えた。これにより人の間の隅々まで伝わった。劉子南に関係しているからか、道士はこの丸薬を「冠軍丸」「武威丸」と呼んだ。
(E)禹歩で神を呼ぶ。「刀剣が交わされるとき、魁星に乗じ、罡気(こうき)に履し、四方の神明の長を呼べば、霊験あらたかである」。
(9)
晋代以降辟兵術の種類はしだいに増えていった。唐代の民間の習慣で、正月初一にカササギの巣を焼き、あとで厠(かわや)の中に放った。このように辟兵(兵器を避けること)ができると考えたのである。道士はまた霊符を貼った辟兵し、勝利を得る三寸鏡を懐に持っていた。
『千金翼方』巻三十では悪人を追殺する「護身禁法」について詳しく述べている。この種の呪法は辟兵術と理解することができる。仇や悪党とたまたま出会ったら、まず後ろに三歩後退し、生きた人間の喉をひねる。
そして両足の親指を地面に立てて、呪文を唱える。「北斗神君、来て悪人を滅ぼしたまえ。敵の某甲の頭を斬り、天門に送り給え。急急如太上老君魁剛律令!」。
ほかにつぎのような呪文がある。「兵を揚げて我を追え。返す刀で征服しよう。明星北斗、却敵万里」。
この呪法と漢代の図画に描く北斗辟兵法、太一に扮して舞う辟兵法、王莽の威斗辟兵術、道士介象の北斗神名を唱える辟兵法など、脈々と伝承されてきたことがうかがえる。
明清代、辟兵術はなおも広く残っていて、衰える兆しはなかった。明清代の戦争中、しばしば裸体の女性を用いて大砲を厭勝するという現象が見られた。『続子不語』にも明末期の和尚の「撮土避賊」(土を盛って賊の害を避ける)の故事が収録されている。光緒年間に名士鄒弢(すうとう)は言った。大愚和尚という和尚と会ったが、彼は遁甲術の「反砲傷敵」をよくし、敵に「槍砲不霊」をもたらした、と。この種の辟兵法術が失われてしまったのは残念だと彼は述べている。これらのことから明清代の術士が辟兵巫術を堅く信じていたことがわかる。
畏怖、疑惑で見られること、検証されること。これは巫術の弱点である。辟兵法術も似たようなものだ。紀昀はたまたま高価な兜が買える数百金の薪窯の磁器の破片を売る旅商人と会った。この磁器の破片は甲冑にぴったりとおさまったので「戦場に臨んでも、これで火器を避けることができる」と言い放った。取り囲んで見ている者たちには、磁器の破片に霊験があるかどうか判定する手掛かりを持たなかった。
紀昀は言った。「なぜこれを縄で吊るさないのだろうか。なぜ銃の鉛の弾でこれを撃たないのだろうか。辟火(火器を避ける)なら、砕けることはない。数百金でも高くはない。もし砕けたなら、辟火ではなかったことになる。数百金なんて価値はまったくない」。
旅商人は試すことを許さず、紀昀に対して言った。「こうやって試すのはよくないですな。興ざめってものです」。しかし奥深くて微妙な話を面白がる人はいるもので、この磁器の破片は最終的に宦官の家に百金で買われたという。