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 分娩をケガレとみなす観念は古くからあった。秦代以前、貴族の女性は分娩前にかならず側室に移された。漢代、江南では「婦人の乳をはばかり、不吉であるとした」という悪習があり、出産に臨む女性は家庭から遠く離され、簡素な茅で作られた小屋や人跡まれな地域の家で分娩することが強いられた。満月のあとようやく家の門をくぐることができた。こうした悪習は、産婦の血のケガレの禁忌から生まれたものである。

 産婦のために臨時で建てる産屋(うぶや)を古くは「産廬(さんろ)」といった。産廬を建てるには、いろいろと細かいことを考えなければならなかった。

「正月、六月、七月、十一月に廬(いおり)を作る、一戸、皆東南向き、吉なり。二月、三月、四月、五月、八月、九月、(十月)、十二月に廬を作る、一戸、皆西南向き、吉なり。およそ産廬を作るに、棗棘子(酸棗)、精錬していない戟や棍棒はなし、また穀物で生活するな、大樹の下もまた大凶なり。また竈祭に近づくな、これも大凶なり」。

 「乳飲み子は部屋から出てはいけない」という習わしのある地区には、同様に数多くのタブーがある。産婦の血のケガレが神霊を冒涜し、神霊が産婦やその家族に禍をもたらさないように、術士は「産婦借地」の方法を考え出した。この方法とは、分娩用に土地を神霊から借りて、諸神にケガレの地域を避けてもらい、そうでなければ自らの責任でケガレを受けいれてもらうというものである。こうして産婦や家族に罪が着せられないように、害が及ばないようにしたのである。

 古医書『子母秘録』に記される「借地文」は以下のとおり。

「東に借りる十歩、西に借りる十歩、南に借りる十歩、北に借りる十歩、上に借りる十歩、下に借りる十歩、壁方の中、三十余歩。産婦借地、汚濊を恐れる。あるいは東海神王あり、あるいは西海神王あり、あるいは南海神王あり、あるいは北海神王あり、あるいは日遊将軍あり、白虎夫人、横に行くこと十丈。軒轅揺れを招く、高さ十丈ほど挙げる。天狗の地軸、地に入ること十丈。急急如律令!」

 分娩前の一か月、毎日一本書写し、三遍念じたあと、家の北塀の真ん中の位置にそれを貼る。


 「反支禁忌」とは、分娩時間の禁忌のことである。[反支とは、術数星命学の概念。たとえば特定の日が不吉利とされた場合、その日は反支日と呼ばれる]

たとえば「年立反支」の場合、子年七月は産忌、丑年八月は産忌、など。

「年数反支」の場合、産婦14歳は八月が産忌、30歳は十二月が産忌、など。

「生年反支」の場合、子年生まれの産婦は正月が産忌、丑年生まれは十二月が産忌、など。

 「日反支」の場合、初一が子、丑日である月は、六日が反支。初一が寅、卯日である月は、五日が反支である。

 古医書『産経』によると、産婦が産忌を犯した場合、多くは命を喪ってしまう。よってお産の前に細かく産期が反支であるかどうかをチェックする必要がある。もし分娩の日が反支であったなら、産婦は牛皮、あるいは草木灰の上で出産しなければならない。その際、血で汚れたものが地面に触れないようにする。でないと死は免れない。産婦を洗った水は器に入れるよう努める。あたりにまき散らしてはいけない。忌み月が過ぎたとき、そうしたことは必要なくなる。