古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

3章 
12 愛のまじない(上) 魂魄を攻撃する一般的な法 

 

(1)

 古代社会の猟師はすでに呪術を用いてさらに多くの獲物を捕獲することができた。そのなかには失恋の痛手を食らい、この方法を応用して違う「獲物」を得ようとした者がいたかもしれない。推測するに、歴史以前から致愛呪術(愛のまじない)は存在していたかもしれない。マレー半島からユーゴスラビアまで、アラブ地域から米国までいたるところで神秘的な意味を含む致愛活動や致愛方法が見られる。

 古代中国の致愛術の起源は秦代以前にさかのぼることができる。『周礼』「内宰」に言う、宮廷の婦女を教導する責任を負う内宰の職責の一つは「奇邪を禁ずること」であると。鄭玄によると、いわゆる奇邪とは、宮女がおこなっていた致愛巫術(愛のまじない)である。これは漢代の媚道に相当する。秦簡『日書』は裁衣禁忌に言及している。「丁丑衣を材(裁)して媚人入る」。丁丑の日、裁衣、すなわち人を引き入れて愛慕させる。すなわち愛する人を自ら家に入らせる。この細かい記述が明らかにしているのは、戦国時代、あるいはもっと古い時代、民間や宮廷にひそかに致愛術ははやっていた。[致愛術とは、特定のモノや儀式を通して愛情を増強したり、コントロールしたりする呪術] 

 漢代から、この種の呪術の記述は増えていった。便意さを考えて、この呪術を二つに分類したい。一つは、一般的な攻撃的な呪術である。辟邪霊物などよく見られる方法を含む。相手方の霊魂を征服することを重んじる。もう一つは、専門的な致愛霊物を使い、施術者自身の吸引力を増強することを重んじる。

 漢代の皇后、嬪(側室)、妃はひとたび寵愛を失うと、媚道をおこない、君主の心を取り戻そうとするのが常だった。媚道とは、致愛法術の総称であり、そのなかにさまざまな種類の巫術が含まれていた。寵愛を一身に受けたいなら、君主の心を変わらせるために、彼の魂魄を攻撃する必要があった。あるいは彼の妃や側室を攻撃しなければならなかった。それゆえ媚道と巫蠱、祝詛は通じあうところがあった。このため秦代以前から媚道は人を害する邪道とみなされるようになった。漢代宮廷では何度も媚道事件が起こった。当事者はみな厳罰に処せられた。

 漢景帝の皇后栗姫は、媚道によってありもしない罪を着せられて死を強要された。栗姫の子劉栄は太子の身分を剝奪された。

 漢武帝の皇后陳阿嬌は、巫女に「婦人媚道」を実施させた。また「巫蠱、祠祭、祝詛」活動をおこない、発覚したあと、巫女楚服ら三百人以上が処刑され、陳皇后は廃せられた。

 漢成帝の頃、許皇后の姉許謁は皇后が冷遇されるのを見て、ひそかに媚道を実施し、祝詛した。しかし事件が発覚し、許謁は処刑され、許皇后も幽閉された。この前に成帝が寵愛する妃の趙飛燕は「許皇后、班倢伃(はんしょうよ)は媚道をおこない、後宮を祝詛し、主上の悪口を並べている」と誣告(罪を着せて陥れること)していた。班倢伃はずばぬけた才能を持ち、皇帝の憐憫を買ったので、処罰を免れることができた。

 

(2)

 漢代の媚道の具体的なやりかたに関しては、『史記』「建元以来侯者年表」の中に見え隠れする。この年表の中の「宣帝侯表」は前漢後期の褚少孫が補ったもので、将陵(という侯国の)侯を列挙しているが、史子回のところで順調に史氏の妻に及んでいる。「子回の妻宜君は故・成王の孫である。嫉妬深く、侍女四十人余りを絞め殺した。女性の初子をさらって肘と膝を切り落とし、それを用いて媚道をおこなった。棄市(死刑の一種)が求刑された」。

 生まれた子の頭を斬り落とし、その肘と膝を用いて媚道をおこなったというのである。初めての子の肘、膝を用いて寵愛を取り戻そうというのは、いったいどういう観念に基づいているのか、現在において推論のしようがない。しかしはっきりとわかるのは、媚道の実施にはひどく残虐な行為を伴うことがあるということだ。

 明代の沈徳符によると、明代の方士の中には男の子の脳髄を吸って食べれば陽道復活[若返り]がなるという奇説を信じる者がいた。福建の抽税太監高寀(こうさい)は「あまねく児童を買ってひそかに殺した」。

 また方士孫太公は房中術にふけり、縉紳(官吏経験者)の仲間と遊んでいた。調熱剤を幼い男の子に飲ませ、しばらくすると、おちんちんが激しく痛み出し、膨れ上がる。痛みが局限に達したところで切り落とし、それを媚薬とした。殺した子供の数は千人にものぼるという。

 明代のこの種の方術は、漢代の「女性のはじめての子供を盗んで切ったものを媚道とする」という行為を参考にしている。両者の手法と目的はほぼ一致するので、それらは歴史的にも関係があるだろう。秦代以前から時の王朝は媚道を邪術として厳禁してきた。この種の法術は人を殺して薬を作るなど、あまりにも残虐すぎた。

 

(3)

 媚道は鬼魅の力を借りて相手を混乱に陥れる。それゆえ媚道は魅道とも称される。陳後主の寵愛する妃張麗華工厭魅の術を用い、「偽鬼道」によって後主を惑わした。宮中に淫祠を置き、巫女をたくさん集め、彼女らを鼓舞した。いわゆる厭魅の術は実質上媚道の別称である。

 一般的な攻撃的な呪術で激しく寵愛するのは、広い意味での媚道である。古代において、仇敵の霊魂を攻撃する呪術がどれだけ求愛活動のなかで運用されてきたことだろうか。致愛術(愛のまじない)が効き目を現わす前に、施術の対象者が施術者の考えに反さないように、すみやかに相手の霊魂を制圧しなければならない。両者は敵対関係にあるので、仇敵を攻撃するのと同じ方法で愛を傾ける。

 この類の致愛術(愛のまじない)に使用される霊物は、髪・爪、姓名、血液、帯血のもの、鳥類の毛・爪、桃木、桐人、泥土などである。これらはどれも仇敵を攻撃するものであり、邪悪なものを辟除するときに使われる霊物である。以下、霊物とされるものを列挙し、分類しよう。

 

(4)

<毛髪、爪> 

 致愛術(愛のまじない)による髪や爪の処理の仕方には、埋蔵、安置、佩用(身に帯びる)、内服などがある。漢代の術士は言う。「かまどの前に髪を埋めれば、女性は夫の家で安んじる」と。後世の術士はここから多くの関連した法術を生み出した。たとえば「夫婦が憎みあったとき、頭髪をかまどの前に埋めると、鴛鴦(おしどり)のように愛し合うようになる」「婦人の髪を二十本ほど取って焼き、寝床の椅子の下に置く。すると夫婦は仲睦まじくなる」「女性に愛してほしいと願うとき、その女性の髪を二十本ほど取って焼いて灰にし、酒に入れて飲ますと、女性はその人を激しく愛するようになる」「嫁入り前の女性の髪を十四枚取って、撚ってひもにし、これを身に着けると、見る人は悲痛の思いになる」など(『医心方』巻二十六)。

 馬王堆漢墓出土『雑禁方』が言及する。「左麋(眉)を取って酒中に直(置)き、これを飲み、必ずこれを得る」。この意味は、相手の左目の上の眉毛を酒に入れて飲めば、相手の愛を得られるというもの。

 唐代の敦煌の人が書いた文に『攘女子婚人述秘法』(神に祈って女性と結婚した人が述べる秘法)はもっぱら致愛巫術(愛のまじない)について述べている。題の「攘」の字は学者によれば「禳」である。『秘法』に言う、「夫に愛してほしくて夫の親指の爪を焼いて灰にし、それを酒に混ぜて飲んだところ、霊験があった」。また言う、「男は妻に愛してほしいと願い、女の髪二十本ほどを取り、焼いて灰を作り、酒とともにこれを服すると、霊験があった」と。この種の方法と先に列挙した「女性に愛させる方法」とは、内容が完全に一致する。長い間この法術が民間に流布していたことがわかる。

 毛髪と爪を用いて相手の感情をコントロールするのは、つぎのような観念に基づいている。これらのものと、その持ち主の身体および魂とは、いわば反響しあう関係にあると認識されている。たとえば「かまどの前に髪を埋める」のは、婦女の毛髪を埋蔵することによって彼女の魂を取りまとめ、固定するのである。この種の法術をおこなうさいに基本的に要求されるのは、相手の毛髪や爪を用いること、あるいは相手に施術者の毛髪や爪を服用させることである。

 『延齢方』に言う、「おのれの爪、髪を取り焼いて灰にする。相手の人の飲食にこれを入れる。一日見ないだけで三か月も見ていないかのようになる」。これはつまり自分の髪や爪を焼いて灰を作り、ごはんやおかずに混ぜて食べさせると、施術者に対する感情が生まれ、「一日見ないだけで三か月も見ていないかのように」思わせるのである。相手の髪や爪を用いる場合、それは相手をコントロールするという意味である。そして相手方にこちらの髪や爪を用いさせるのは、自分が相手にコントロールさせることを意味する。この二つの行為はおなじ巫術の原理がもとになっている。

 ただしのちに一部の人は理解できず、あるいはこの原理に注意を払わず、伝統的な致愛法(愛のまじない)を曖昧模糊な、いくつもの解釈可能なものを作り上げた。たとえば敦煌『秘法』に言う。

「およそ男子は婦人と私通したいと欲し、庚子の日に自らの右わきの毛を取り、爪と混ぜ、焼いて灰を作る。自ら□に泥とともに塗る」

「およそ婦人に愛するよう欲するなら、苦楊(?)と目の中の毛(?)を取り、焼いて灰を作る。姻(菌)と混ぜて自ら服せば(?)霊験あり」。

 この二つの文章は鍵になる部分の説明が欠けている。最初の文の「爪と混ぜ」の爪が婦人のものとは言っていない。二番目の文の「目の中の毛」もそれが婦人のものとはかぎらない。たやすく人は誤解して求愛する者が自分の毛や爪を焼いて自分のために灰を作る。交感巫術の観点から見ると、自身のものを焼いて食べるのは、自身に求愛するのと変わらない。相手方とは何の関係もないからだ。これはあまりにそそっかしすぎるものであり、誤読から生まれた重大な言い間違いである。

 

(5)

<相手の姓名> 

 古代医書『竜樹方』に言う、「心の中で愛する女に近づくことができないとき、その姓名を二十七枚書く。そして日の出の時、東に向かい、まっすぐ見て、井華水[早朝、最初に汲む井泉の水。精神を鎮める作用があるとされる]とともにそれを服する。かならず霊験あり。他言するなかれ」。

 古代の人は、名前と魂は深い関係があると考えていた。相手の名前を食べるのは、相手の髪、爪の灰を食べるのとおなじことだった。どちらも相手の魂を制圧する方法だった。

 『陶潜方』に言う。「戌子の日に足裏に姓名を書けば、かならず得られる」。女性の名を足の裏に書けば、彼女の魂を踏みつけることになる。

 敦煌『秘法』は言う。「女に愛してほしければ、庚子の日に女性の名を書くといい。方円[面積]□□、無主[主人のいない女]、すなわち得る」「およそ男は婦女と私通したがるもの。庚子の日に女性の名を書き、封腹[おなかに貼ること]すれば、十日を経ずして必ず得られる」「およそ男は女と私通したいと欲するもの。庚子の日に女性の名を書き、焼いて灰を作り、これを酒と混ぜて服せば、すなわちただちにひそかに霊験あり」

 この三種の方法はどれも庚子の日に相手の名を書写することを必要としている。すなわち術士は庚子日が特別な意味を持つ日と認識している。一つ目は、庚子日に女子の姓名を書くことと、一定の面積に合致することのみを要求している。これは主人のいない女の場合にのみ適用される。二つ目は、女の姓名を腹部に貼ることを要求している。三つ目は、女の姓名を焼いて灰にして服用することを求めている。

 

(6)

<血で汚れたもの> 

 『淮南万華術』に言う、「門の上の赤布、婦人は去りがたし。婦人の月事[月経]の布を取って、七月七日に焼いて灰を作り、門の横木の上に置く。すなわち去ることができない。このことを婦人に知らしめるなかれ」。月事布は婦女の血で汚れている。血の汚れは魂と関連していると考えられる。血で汚れたものを焼く、また灰となったものを門の横木の上に置く。それと「婦人の髪二十本を取り、焼いて、寝所の席の下に置く」のとは通じるものがある。

 張華『博物誌』は別の方法を引用する。「月布を戸口の敷居の下に埋める。婦人が戸から入ると去りがたい気持ちにさせる」。この原理と「髪をかまどの前に埋める」のは近いと言えるだろう。

 明代の某娼家によれば、彼らはこの種の汚物致愛術をおこなっていた。『堅瓢広集』巻一「娼家魘術」が引用する祝枝山「志怪録」は言う。「ある少年が年若く、美しい、お金を持ったある遊女につきまとった。身も心も彼女にささげた。心を惑わされた少年は娼家に何年もとどまっていた。ある日たまたま楼窓(まど)にもたれかかってぼんやり眺めていると、遊女が魚を持って中に入ろうとしているのが見えた。なぜ侍女に持たせないで自分で持っているのだろうかと訝しく思った。少年はひそかに観察した。遊女は魚を持ったまま厠(かわや)に入ったので、ますますあやしいと思った。覗き見ると、遊女は魚を空の尿器に入れ、これを傾けると、器から何かを尿器に注いでいる。その水は赤かった。目を凝らして見ると、それは月経のようだった。おぞましいかといえば、そうではなかった」。

 これはつまり遊女の慣例で、月水をそそいだ魚で作った料理を意中の人に食べさせようとしているのだ。これを食べれば去りがたくなる。血の汚れものと髪や爪はおなじようなもので、交互に使用することも可能だ。祝枝山はつぎのように語る。「女はこれによって男を留めることができる。男もまた女を留めることができる」。

 

(7) 

<鳥・鶏の羽根と爪> 

 馬王堆漢墓出土の『雑禁方』に言う、「二羽のメスの隹(スイ)の尾を取り、じっくりあぶって、これを飲みこむ。微(媚)なるかな」。また言う。「オスの隹の左蚤(爪)を4つ、小女子の左爪を4つ取って、炊器でよく炒り、溶かし、塗りつける。これで人を得るかな」。この隹(スイ)は鳥類を指している。この二つの文は、それぞれ鳥の尾羽を取ってあぶり、粉末になるまで搗き、水に入れてよく混ぜ、飲み込む。すると相手は人の歓心を買おうとするようになる。

 オス鳥の左足の爪4枚、少女の左手の爪4枚を取って、鍪(ぼう 兜あるいは炊器)の中に入れ、炒って、粉末になるまでよく混ぜる。相手の衣服、あるいは体に塗れば、相手を得ることができる。

 後代の術士は雄鶏の羽根と爪を多く用いた。古代の方術書『雑五行書』に言う。「婦女を欲するなら、雄鶏の二本の羽根を取って焼き、酒の中に入れてこれを飲む。すると必ず欲しいものが得られる。戊子の日は天地が合わさる日であり、必ず得られる。三度行って得られないなら、女は死ぬべし」。

 古医書『枕中方』に言う、「人が婦女を求めるも得難ければ、雄鶏の羽根を27枚取って、焼いて灰を作り、これを酒に入れて服用する。かならず得られる」。『延齢経』にも言う、致愛者は「雄鶏の左足の爪を、嫁入り前の女性の右手の中指の爪を取り、焼いて灰を作り、かの人の衣の上に撒く」。『延齢経』の引用箇所と『雑禁方』の二番目の文はよく似ている。それは漢代の古い方法が変化してきた結果といえるだろう。術士は雄鶏を辟邪霊物とみなしてきた。かつ鶏と鳥を同類として扱ってきた。これにより雄鶏の爪はオスの烏の代用品とすることができた。

 

(8) 

<桃木の木偶と桃枝> 

 『枕中方』に言う、「五月五日、東から桃の枝を取り、日が出る前に三寸の木人(木偶)を作る。そして衣と帯を着けると、世の人は言葉の価値を知り、当然のごとく敬愛されるようになる」。施術者は世間の称賛を得るとともに、当然施術者に対する愛慕も増すというのである。説明すべきことは、この医法が一部の医家に誤って解釈され、記憶力増強法とされたことである。

 『千金要方』巻十四「好忘」に記録されている医法とはつぎのようなものだ。「五月五日になるといつも東に伸びた桃の枝を取り、日が出る前に三寸の木人(木偶)を作る。衣や帯を着けると、人に忘れさせない(記憶力がよくなる)」。この忘れっぽいのを治す方法と『枕中方』が述べる致愛法は完全に一致する。「令人不忘」(人に忘れさせない)の四文字は簡単に意味を変えることができる。愛する人に忘れさせない、と読むこともできるのだ。また忘れっぽくさせない、と理解することも可能だ。この方法を「好忘」に入れたところ、誤って逆の意味に解釈された。敦煌の『秘法』には類似した記載があるが、こちらは致愛法(愛のまじない)である。

 『秘法』に言う、「およそ婦人に敬愛してほしければ、子(ね)の日に東南の桃の枝を取り、木人(木偶)を作る。名を書き、厠(かわや)の上に置けば、験あり」。または言う。「およそ婦人のほうから愛してもらいたければ、東南の桃の枝を取り、女性の名を書き、厠(かわや)の上に置けば、たちまち験が得られる」。桃の木偶、桃枝を用いる致愛(愛のまじない)は、術士たちが常日頃用いた法術だった。

 『秘法』に際立っている点は、毎月子(ね)の日に桃枝を切ること、桃の木偶、桃枝に女性の姓名を書くこと、霊物を厠(かわや)の上に置くことだった。これは致愛法(愛のまじない)をまとめた総合的な致愛法術と言える。

 

<梧桐(アオギリ)の木偶> 

 『霊奇方』に言う、「庚申の日、梧桐(アオギリ)の東南の根を三寸ほど切り取り、男を克(刻)して作り、五色の彩衣を着せると、相手と相思相愛になる」。これは女性専用の方術である。古代術士は桐木から偶人を作るのを慣例としていた。桐人を懐に隠す致愛(愛のまじない)は、巫蠱術が発展してできたものと考えられる。

 

<泥と灰塵> 

 漢代『雑禁方』がすでに言及しているように、門の上に泥を五尺平方ほど塗ると、夫婦仲の悪いのが治るという。あるいは正門の左右に泥五尺平方を塗れば、貴人の歓心を買うことができる。

 のちに『枕中方』は言う、「嫁が夫に愛されなければ、床席(ベッド兼椅子)の下の塵を取り、夫に食べさせる。夫に知られてはいけない。すると夫は嫁を敬い愛するようになる」と『如意方』に言う、「履(くつ)の下の土を取って団子を三つ作る。ひそかに椅子の下にそれらを置く。よい結果が得られる」。『霊奇方』に言う、「黄土を取り、酒と混ぜると、それを家の中の戸の下に一寸四方の大きさに塗る。すると年老いるまで互いに愛し合う」。あるいは「かまどの中の黄土を取り、膠(にかわ)と混ぜ、屋上に置き、五日後にそれを取ると、欲する人の衣に塗る。すると相思相愛になる」。どちらも効能のある塵や土を用いているが、こうした観念は迷信的である。敦煌『秘法』にも言う、「およそ夫に愛させたいとき、戸の下の土(泥)を取り、戸の上に、周囲五寸の大きさに塗る。すると夫から畏敬の念で見られるようになる」。これは夫の愛を求める婦女が門の下を掘り、それを泥と混ぜ、そのあと門の上に五寸の幅の泥のかたまりを塗る。

 

(9) 

 明清の頃、娼家が奉った職業神は白眉神、あるいは祆(けん)神といった。白眉神像の「髯が長くて偉そうな顔貌で、馬に乗り刀を持つ」さまは関羽神像とよく似ていた。異なるのは「眉白く目が赤い」ことだった。

 明代の京師(都)の風俗で、もし人を「白眉赤眼」と罵ったら、相手の顔色が突然変わるというのがあった。娼家内部でも直接白眉神と呼ぶのをタブーとし、表向きはそれを「関侯」あるいは「関壮穆」(かんそうぼく 唐代以降の関羽の封号)と呼んだ。「坊曲(色街)の遊女、はじめて客の相手をするとき、艾豭(あいか なれなれしい客)とこの神を拝すれば、しかるのちいい仲になる。南北のどちらの都[北京と南京]もおなじである。

 娼家は白眉神を職業保護神とし、なれなれしい客に対してその神力を借りて法術をおこなうことがあった。毎月の一、十五日に、遊女はハンカチを白眉神像頭部にかぶせた。そして針をハンカチに刺し、あとでそのハンカチを大事にしまった。愛情に無頓着な者に会ったら、怒っているふうを装い、その人の顔に手拭いを投げつける。彼に地上からそれを拾わせると、彼の魂魄を鎮めることができ、それは生まれることはなく、去っていく。

 明人沈周は『白眉神詞』の中で述べる。「眉神に祈る。神面を(ハンカチで)覆い、金針でハンカチを刺す。針の目に心の願いを通す」。最後の文は巫術意識を含む法術を了解したものを啓示する。針を刺し、ハンカチと神像を縫い合わせ、ハンカチ上に遊女の意志を集めるだけでなく、白眉神の神力を注ぎ込む。

 まさに何某の顔の上にハンカチを投げつける。すなわちこの種の意志と神力を用いてこの人の霊魂を震えさせる。娼家には客を追いやる法術がある。

 「遊女が人と接したくないとき、塩を入れた水を火中に投じる。するとその人はあせって急に立ち去る」。

 このほかなれなれしい客は、自ら遊女が人を魘(えん)し、魅するのを防ぐ方法をおこなう。彼らはそれを「制雌魘法」、すなわち雌が魘(えん)するのを制する法と呼ぶ。

 娼家が好んで魅術を用いると知っているので、まず雄精(雄黄)を身に帯び、呪文の「婆珊婆演底」(バサンバエンティ)を唱え、魘(えん)をさせないようにする。段成式『酉陽雑俎』によると、「婆珊婆演底」とはもともと悪夢を駆除する神呪だという。おそらく呪文は最初、「塩を水に撒き、火に投げ入れる」といった娼家を守るための排他的な法術に用いられたのだろう。呪文を唱える目的は「眠花宿柳」(遊女のこと)の楽しい夢が砕け散らないよう守ることだった。これによって長い間、娼家の魔力は保たれてきた。

 古代には愛と関連したものにもうひとつ、致夢術(夢まじない)があった。唐代の人馮贅がだれかの言葉を引用している。「両耳元で金属音を鳴らし、桂心丸を服用し、金輪呪を念じる。すなわち心を寄せる人が、生きていようと死んでいようと、夜、夢の中に現れる」。

 方以智『物理小識』は言う、人の思念を取り、平時、もっとも喜ぶもの、たとえば自ら書いた書画の上面に朱砂で相手方の名を記す。ふたたび狐脳(薬材)、商陸(薬材)、香煙を用いて、満月の夜、「離趾持唵嚂悉怛吽」[最後の5文字はオーンナモシッダフーンに対応している]という呪文を唱える。四十九日がたち、相手の名前が記された物の下に相手の絵を置いておくと、願ったままに相手の夢を見ることができる。相手が座った椅子を用いれば、より早く愛慕する人の夢が見られる。