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『詩経』中の「大田」という詩は西周の農業生産状況を描いたいわば農業詩である。その中の一節はこうである。

「既堅既好、不稂不莠(ふろうふゆう)、去其螟螣(めいとう)、及其蟊賊(ぼうぞく)、無害我田稚。田祖有神、秉畀(ひんひ)炎火」。

螟(めい)、螣(とう)、蟊(ぼう)、賊(ぞく)はどれも農作物につく害虫である。田祖はすなわち田神。後半の一節に「神通広大なる田祖の霊験はあらたかで、すべての害虫は烈火に放り込まれる」と述べられている。[不稂不莠の稂と莠は、前者は狼尾草、後者は犬尾草と呼ばれる雑草で、苗に雑草が混じっていないことを言う][秉畀炎火とは、田んぼの害虫をすべて捉え、焼き払うこと]

 『周礼』と関連したところを分析すると、「去其螟螣」(害虫はいなくなれ)という言葉は現実の除虫活動を描いたのではなく、命令口調を帯びた呪文であることがわかる。この理解が間違っていないなら、『大田』本文中の「攻説」の状況が見えてくるだろう。

 『礼記』「郊特牲」に記されるように、秦代以前は毎年年の終わりに「臘祭」と呼ばれる大祭を挙行しなければならなかった。臘礼で少なからぬ呪文を念じたが、その一つが「昆虫毋(ぶ)作」である。この呪文こそ害虫に対して発する「攻説」の言葉である。


 古代においてもっとも甚大な虫害は、蝗(イナゴ)害だった。『春秋』中に少なからぬ(ちゅう)害の記録がある。とは蝗(イナゴ)のことである。歴代正史の「五行志」(『南斉書』を除く)や「霊異志」「災異志」などはどれも専用の章を設けて蝗害の状況を記述している。そのなかでも「飛蝗蔽日」「飛蝗蔽天」「覆地尺許」「積地二尺」などはみなこれである。

 明朝崇禎甲申年(1644年)、「河南では蝗が飛んできて子供を食べるという。群れてやってくるさまは、猛雨か毒矢のごとくで、人を包んで食べつくした。皮も肉もすべて食べつくした」。

 開封(カイフォン)府の城門がイナゴの大群で塞がれてしまい、通行することができなくなった。県令は仕方なく部下に大砲を持ってこさせ、イナゴの大群に向けて砲撃させた。この一撃でようやく人が通行できるようになった。しかしまたたく間に道路はまたイナゴで塞がれてしまった。

 清康煕丁卯年(1687年)、江寧で郷試が行われたとき、イナゴの大群が試験会場に入ってきた。試験を受けていた士子たちはイナゴにひげや髪の毛を抜き取られ、狼狽するばかりだった。イナゴの群れに一掃された地域は米粒ひとつの収穫もなく、やむなく故郷を捨てて難民となる人が後を絶たなかった。