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三千年の悠長な歴史の中で、人間は有効なイナゴ撃退方法を探し出すことができなかった。このようなことになったのは、古代の士大夫の蝗災(イナゴの災害)に関する観念が根本的に錯誤していたからである。『呂氏春秋』「十二紀」や類似した暦書のどれもが、蝗虫(イナゴ)こそ、災いをもたらすものととらえ、季節ごとの政令の組み合わせが当を得ていなかったことに起因する。
漢代の儒学者の『尚書』「洪范」の提供する五行式を根拠に、イナゴの害を強引に「水不潤下」[水は本性として下に向かって流れる、あるいは潤すこと。それに反すると、蝗災がもたらされる]や君主の「聴之不聡」(一面だけを聞いて、偏ったことを信じてしまうこと)を同じ枠の中に入れ、皇帝が適切でない人を重用し、官吏が利を貪ったことが原因でイナゴの災害が起きたと認識された。
これにより、歴代史家は『五行志』を編纂し、蝗災(イナゴの災害)を「水不潤下」と「聴之不聡」の範疇に入れてしまったのである。
唐玄宗開元四年(716年)五月、太行山より東で「螟蝗害稼」(ズイムシやイナゴによる穀物の害)が発生したので,朝廷は各地に御史を派遣し、滅蝗(イナゴの絶滅)を推し進めた。とくに「イナゴを捕って埋める」ことを推進した。
汴(べん)州刺史倪若水(げいじゃくすい)はしかし、御史が当地にやってきて滅蝗の指揮をふるうのを拒絶した。理由は、「蝗(イナゴ)は天災である。自らよく徳を修める」。(イナゴを)捕えて殺すことを承諾しなかった。
宰相の姚崇は中央の命令を執行しようとした。しかし倪若水は「すでにイナゴを埋めるという方法をとらないことに決めていた。彼はイナゴ十四万石を捕獲し、汴河に投げ捨てていた。数え切れないイナゴが流された」。
この件によって朝廷は大騒ぎになった。一部の官吏は、捕えて埋める方式の強行を指弾した。唐玄宗はどうしたらよいかわからず、姚崇に戒めて言った。
「虫を殺しすぎるな。穏やかな世の中の空気まで傷ついてしまいそうだ」
皇帝にはきわめて高い威光と人望があったので、大臣は蝗災の機会に乗じて時政を批判したのである。このときどのように徳を修めてイナゴを殲滅するかは、皇帝の自覚によるところが大きいのである。
貞観二年(628年)六月、大旱後、長安にイナゴの大群が発生した。ある日唐太宗は禁苑で一匹のイナゴを拾い上げて言った。
「人は穀物に頼って生きている。おまえは収穫に害を与えるためにやってきた。害を与えられるのはわが民である。民に罪があるなら、それはわたしが負うべきものである。もしおまえが、ものわかりがいいなら、わたしだけを害せよ。民を害してはならない」
そういい終わると、阻止しようとする侍臣を振り切ってイナゴを飲みこんだ。伝説によれば、この年天は唐太宗の壮挙に感動し、イナゴの大群がやってきたとはいえ、大災害とまではいたらなかった。呑蝗(イナゴを飲み込む)の挙も、自焚求雨(自らを燃やして雨を願う)も、自懲(自らを罰す)という意味ではおなじである。徳を修めてイナゴを殲滅するという俗信ではないが、統治者がイナゴの災害を前にして、ほかに何か良策があるわけではないことを表している。