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漢代の術士には「北に向かわされ、巫鼠を呪い殺す」という言い方がある。「巫鼠」という名称は、巫と鼠に分けて細かく論ずるには及ばない。術士は、殺鼠・滅鼠のために用いる呪文として認識すればいいのである。伝説によれば術士はネズミをコントロールする禁呪を用いて、呼べばネズミがやってきて、去るよう命ずればネズミを追い払うことがでた。鼠神といってもさしつかえなかった。
晋代の術士趙侯(趙度とも)は、姿形は俗物で、幼いころから法術の研鑽を喜んで重ねてきた。「目を閉じて気を吹いて禁をなし」、盆の清水に魚竜を出現させた。「(趙)侯は白米を持っていたが、それはネズミが盗んだものだった。髪を垂らし、刀を持って、地面に獄を描く。四面にそれぞれ門がある獄だ。東に向かって長嘯すると、ネズミの群れはそちらに向かった」。趙侯は白米を盗み食いしたネズミらに罪を認めるよう命じた。すると十余匹のネズミが「牢獄」の中で腹ばいになり、動かなくなった。趙侯はネズミたちを殺し、「腹を裂いてはらわたを見ると、お米がたくさんつまっていた。
隋代、民間に「為蚕逐鼠法」が流行した。正月十五日、煮粥祷告(粥を煮て祈祷する)をし、そのあと粥の上に大肉[よく煮た豚肉]のかたまりを加える。施術者は屋根に登ってそれを食べ、食べ終わったら呪文を唱える。
「登高麋、挟鼠脳、欲来不来、待我三蚕老」。
この意味は以下の通り。高いところに登って粥(麋)を食べる。そしてネズミの頭を捉えて言う。(ネズミよ)お前たちは来るのか、来ないのか。三番蚕が老いるまで私を待っても遅くはないぞ(それからお前たちを退治する)。
「正月十五日に豆麋(とうび)を作る。油膏をそれに加える。門戸でそれを祀る」。これはもともと南朝の旧俗である。蚕逐鼠法はまさにこの種の習俗が変じたものである。