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古代の術士はつねに符籙を用いてネズミを厭鎮してきた。[厭鎮とは、厭勝法術によって抑えこむこと]
晋朝の劉柔は夜、ネズミに左手中指を噛まれ、走って術士淳于智のところへ行き、助けを求めた。淳于智は劉柔の手の横縞の下三寸(10センチ)のところに朱書きで一寸二分ほどの大きさの「田」の字を書いた。そして睡眠中手を露出しておくようにと言いきかせた。[手の横縞とは、手首の横皴(よこじわ)のことと思われる]
その夜、はたして大ネズミが劉柔の寝台の傍らで死んでいた。符籙の「鬼」字の頭の部分はつねに「田」と書かれる。淳于智の書いた「田」は鬼頭を表している。
古代小説中には符(おふだ)によってネズミを制圧する描写が数多くあり、一部の作者は故意に時間、地点、人物を具体的に書き、極力読者にそのことが実際にあったという印象を与えようとする。
『究怪録』は書く、斉世祖永明十年(492年)、丹陽郡百姓(平民)茅崇丘の家の厨房から夜な夜な飲食しながら笑う声が聞こえるようになった。調べようと中に入ると、もとのように静まりかえっていた。外に出て入り口を閉めると、また中から騒がしい音が聞こえてくる。家の主人は対応するのに疲れたので、道士に頼んで除妖(お祓い)をしてもらうことにした。
道士は懐から符を取り出すと、茅氏に渡し、言って聞かせた。
「符(おふだ)を竈(かまど)と連なる北壁に釘打ってください。明日の早朝に結果が出ているでしょう」
茅崇丘は言われたとおりのことをした。翌朝早く、厨房の北壁の下に五、六匹の二尺余りの無毛紅ネズミの死骸を発見した。これ以降、奇怪な現象は起きなかった。
五代の厳子休(旧題馮翊子)の『桂苑叢談』に言う、唐僖宗末年、広陵に杜可均という名の乞食がいた。酒屋の主人の厚遇に報いようと、小さい頃学んだ滅鼠符を贈った。店主は「この符を法命でもって燃やし、ネズミを絶滅することができた」。この故事をみるに、滅鼠符は天然の威力を持っていて、巫師の「精気」(生命の本源)に頼らなくてもよかった。
『道蔵』中の「太上秘法鎮宅霊符」もは「厭蛇鼠食蚕符」が記されている(図A)。この書によれば、夫婦の不和も消すことができるという。古い小説[志怪小説]は霊符によってネズミ殲滅の奇跡を起こしたとおおげさに描くが、その符がどのようなものであるかは記さない。この図の符から杜可均が用いた霊符がどのようなものであったか、推論することができる。
魏晋以来、民間に流行した滅鼠法術はいわば「殺一儆(けい)百」(見せしめに殺すこと)の断鼠尾法(ネズミの尾を切る法術)である。
蝋月(十二月)にネズミを一匹捕まえ、その尾をぶった切る。正月一日の夜明け前にこのネズミを屋内に放り、祝言(呪文)を唱える。
付勅屋更、制断鼠虫、三時言功、鼠不敢行!(棲み処を変えるよう勅命を言い渡した。ネズミや虫に処罰を下す。朝昼晩と言ってきたが、ネズミは実行しようとしない!)
もう一つの法術もこれとよく似ているが、やり方も呪文もさらにシンプルになっている。
正月一日日の出前、手に十二月にぶった切ったネズミの尾を持ち、蚕部屋のなかで祝言(呪文)を唱える。
制断鼠虫、切不得行!(鼠や虫に処罰を下す。切ってしまえ)
祝言を三度唱えてネズミの尾を蚕房の壁につるす。こうすれば「永断鼠暴」(永遠にネズミが暴れることはない)となる。