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周代の貴族の「礼」によると、生後三か月の嬰児に「名」(乳名)が付けられ、二十歳前後(上流貴族の冠礼はもう少し早い)の成人儀式で「字」(あざな)が付けられる。乳名は生まれたときからほぼともにあるので、霊魂といっしょにいる時間が長く、霊魂と密接な関係にあるとみなされる。
『礼記』「喪服小記」に言う、「復(魂よばい)と銘は、天子から士まで、言葉は同じだった」。招魂のとき、亡魂と関係が深い乳名を呼ぶ必要があった。貴族の等級ごとの招魂のために「通礼」をきちんと行わなければならなかった。
『礼記』「曲礼下」に「復(魂よばい)という。天子の復である」と記される。これは春秋時代以降、「名諱(めいい)制度」が日増しに厳格になったことを反映している。
鄭玄は、『喪服小記』に記されているのは殷礼、『曲礼』に記されているのは周礼であり、両者にはわずかな違いがあると述べている。
西周春秋時代、「臣下は君主の名を呼ぶことができない」という決まりがあった。秦漢代の人には、厳格すぎると感じるほどではなかっただろう。周公は上天に向かって、病気になった兄の周武王の身代わりに自分が病気になってもいいと申し出た。このときの祝辞(祈りの言葉)のなかで、武王の本当の名を呼んだ。
春秋諸侯の盟書[誓いを立てて同盟を結ぶさいの公文書]には、本当の国君の名を記す必要があった。盟書はすべて史臣[重要なことを記録に残す官吏]が読み上げた。
似たような事例は枚挙にいとまがない。厳格に言うなら、「天子の復(魂よばい)」とは招魂のことで、巫術の原理とは一致しない。乳名と霊魂の特殊な関係を強調する必要はなかった。だれかの通名を、私名に置き換えるだけである。
原始巫術の観点から見ると、素朴な子供の遊びのようなものである。天子には指を折って数えるのがむつかしく、広く果てしない空に向かって「天子の魂よ、戻ってこい」と叫んでも、どの天子を呼んでいるのかわかりようがないではないか。誰を呼んでいるのかわからないのに、どうやって素直に体内に戻ることができるだろうか。
[礼記]「喪大記」は言う。「(魂を)呼ぶというのは、男子は名を称することであり、婦人は字(あざな)を称することである」。同様の理由で「婦人は字を称するものだ」と決めつけるのは、後知恵にすぎない。