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 招魂のときのけたたましい声を「皋(ごう)」という。それは人を戦慄させる耳に痛いすさまじい声である。現代においても耳をつんざくような叫び声を「叫魂」と呼ぶ。形のはっきりした比喩である。ただ現代人が言う「叫魂」の声が二千年前の「皋(ごう)」と同じであるかどうかはわからない。

 『士喪礼』によれば、招魂のあと、北西の軒(のき)を取り壊す。これは広く見られる儀法(儀礼と法度)であるが、後世の人にさまざまな憶測の余地を残した。

鄭玄はこれと招魂は無関係と考えている。すなわち屋内に凶気が充満していて、生者が居住するのには適していないとみている。しかしこの説は十分とはいえない。

 軒を壊して穴を開けることに関しては、清代の沈彤(しんとう)の解釈がもっとも合理的である。沈氏は言う。招魂のとき、遺体を室内の南向きの窓の下に留めおく。そして北西の軒に穴を開ける。その目的は「遮蔽しているものを取り去って、神を通すため」である。

 招魂儀礼をする者は家の前に衣を投げる。魂魄が衣服に付いたかどうかはっきりわからなければ、また魂魄が穴を通って中に入り、遺体に戻ることを期待して、北西の軒を壊す。北に向かい、衣を振って呼ぶのは、幽暗の地に向かって霊魂を探し求めるということである。軒を壊し、穴を開けるのは、幽暗の北方に穴を開け、遺体との間に道を通すということである。

 『礼記』「喪大記」は言う。北斉の軒から別の用途のために木を取り出す。死者の頭を洗った米汁で木をよく煮込み、この木を燃やす。多くの経師[経文を書くことを務めとする人]はこれに対し、想像をたくましくした。実際は、まさに沈彤(しんとう)が述べたように、軒を壊すのは米汁を煮込むだめでなく、壊した木にほかの使いようがなかったので、それを燃料にしたのである。