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 周代の招魂儀礼の規模は死者の身分によって違った。上述のごとく、士のクラスの復儀礼の規模は比較的小さく、ひとりの招魂者と堂の下で衣を受け取る人の二人がいれば事足りた。天子、国君のための招魂儀礼となると、盛大に行われた。

 『礼記』「雑記上」は言う。国君の招魂者は儀式の前に北に向かって列をなし、列の先頭は家の西に位置する。この場合の招魂者はひとりではなかった。推測するなら、「復者(招魂復魄する者)の人数は、その命数によって決まった」。すなわち復者の人数は、死者の爵位の命数に応じて天子が決定を下した。

 『周礼』に記される夏采、祭僕、隷僕の三官は、天子の招魂を担当していた。賈公彦(かこうげん)はこれを根拠に、「王の葬送のときは、十二人の復者がいた」と推測した。

 天子や国君の葬送のなかで招魂をする地点は住居とはかぎらなかった。『礼記』「檀弓上」に言う。「(国)君は小寝、大寝、小祖、大祖、庫門、四郊にて復す」。

 『周礼』の夏采は大祖と四郊で、祭僕は小祖で、隷僕は小寝、大寝で招魂を行う。これらの記述は、上流貴族の「復」儀礼が士クラスの「復」と比べてはるかに隆盛に行われていることを反映しているのは疑いない。


 招魂儀式がいつも通りにできないとき、状況に応じた「変礼(異なる儀式)」を行なうことがあった。魯僖公二十二年(前638年)、小国邾婁(ちゅうろう)は魯国に勝利したが、かえってひどい代償を払うことになった。邾婁人の死傷者はきわめて多く、国力を大いに損ねたうえ、衣がないまま招魂儀式をおこなってしまった。招魂の衣のかわりに、仕方なく矢を使って「復」の儀式を挙行したのである。これよりあと、矢を用いた招魂儀式が邾婁のしきたりとなった。招魂に用いる矢は、戦死者が生前に作ったものであること、そして実際に使用したものである必要があった。「矢で(魂を)復する」のは接触巫術に属するものだった。

 『周礼』「夏采」に言う。郊外に出て天子の招魂をするのに、天子が生前乗っていた車に乗るのは必須である。そのとき竿の先に牛(ヤク)の尾をつけ、振り回す。

 『礼記』では何度も言及しているが、外国から派遣された卿大夫や士が途中で亡くなったら、招魂者は馬車の左の車輪の轂(こしき)の上に立ち、ヤクの尾を振りながら魂を招かねばならない。野外でヤクの尾を振る時代があり、戦国時代に至ると、それは慣例になっていた。

この慣例のもっとも早いバージョンが変礼である。ある使者がどこかへ向かっているとき、突然死した。同行者はあわてて招魂用の礼服を捜したが、見つからなかった。それで旗印にしていた竿の先のヤクの尾を代替として使ったのである。


 風俗習慣、文化的背景などは各地で違ったので、招魂儀礼も当然場所によって異なった。楚国は巫の文化が盛んで、ここの招魂儀礼はとくに盛大で厳かだった。『楚辞』中の「招魂」と「大招」は、巫師の口ぶりを模倣したものを書いた招魂の辞である。両方の文の構造はほぼおなじである。

 はじめに世界のあらゆるところに凶悪が充満しているので、もといた場所に戻ってくるよう魂魄を呼ぶ。つぎに宴席のごちそうが豊かで美しいことをおおげさにほめたたえる。あでやかな女性が歌い、舞い、人を虜にする。御座所はきらびやかである。暗黒、すなわち間違った世界から精神を救い出し、光を当てて正しい世界へと導く。

このように招魂儀式はきわめて複雑である。というのも根底には楚国の巫術文化があるからである。


 巫術が民間の冠婚葬祭となったあと、シャーマニズム的な性質は削がれてしまった。招魂術の儀式も例外ではなかった。「復」の儀礼は死者を蘇らせることはできなかった。このことを理解するのは難しいことではなかった。ただ長い間、この知識を持った人は法術が効を奏するかもしれないという希望は持っていた。もしかしたらという心理によって法術をおこなったのである。長く続けるうちに、「復」は完全に儀式となっていった。死者が起き上がるなんてことはありえないのだ。

 戦国時代以降、儒家は招魂儀式には合理性があるという仁愛学説の解釈を用い始めた。彼らが言うには、「復は愛を尽くす道である。神に祈る心である」と。[儒学の仁愛学説とは、命あるものへの尊敬と敬愛、そして慈悲に基づく活動の精神のこと]

 招魂復魄(魂を招き、魄を戻す)とは、生者の死者に対する愛と願望の表現である。

 「復してのち死事を行なう」(招魂儀式が終わったあと、葬送儀礼を続ける)とは、生者がひとりの生命を救おうと尽力することであり、死者に対する無関心を示すものではない。ぞんざいではあるが、死者を別の世界へと送ろうとしているのである。

 この解釈は受け入れられるだろう。葬送の前に招魂法術を実施するのは、生者の願望を体現するほかに、実際的な意味はないのである。

 この説は「復礼」を維持し、保護するというものだが、実際は願いと異なり、壊滅的な打撃を与えてしまうことがある。屋根の上に上って立ち、衣を振って叫びながら呼び、軒を壊して穴を開ける法術は感情を表した方法であって、巫術的な意味はない。祈りの気持ちを簡潔に表現したにすぎない。秦漢の時代に至って、葬送の前に「復礼」が行われることはまれになった。