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漢武帝は李夫人の「招魂返形」(魂を招き、姿形を戻す)のために方士を起用した。李夫人は美しく、舞いの名人だった。「一顧傾人城、再顧傾人国」(ひとたび顧みれば人の城が傾き、ふたたび顧みれば人の国が傾く)と号されるほどだったが、不幸にも早く逝去してしまった。
方士少翁(李少翁)は漢武帝の心を推し量り、李夫人の亡霊を現出させましょうと公言した。少翁は夜間に帳(とばり)を設置し、灯を張り、ロウソクを燃やし、呪術によって魂を招いた。武帝がほかの天幕のなかに隠れて向かいの帳を見ると、李夫人に酷似した美女が灯下に現れた。しばらく座ったまま動かなかったが、そのあとゆっくりと歩いてまわった。前もって少翁からは「見てはならない」と言われていたので、漢武帝は遠くから眺めるしかできなかった。見られないとなると、心は痛むばかりだった。
賦詩のなかでこう述べている。「これは邪(よこしま)か、邪ではないのか。立ってこれを望むと、女のしゃなりしゃなりと歩くのがなんと遅いことか!」。漢武帝は疑い深い性格だったので、少翁の法術を完全に信じたわけではなかったが、向いの帳に走っていくだけの勇気はなかった。そうでなければこの「邪か非邪か」の問題は簡単に解けたであろうに。
方士が李夫人の魂を招いて姿を現した故事は、後世の小説家の恰好の材料となった。前秦王嘉が選んだ『拾遺記』には、李夫人の死後、漢武帝が方士董仲君に「招魂返形」(魂を招き、姿かたちを戻す)をさせたと記されている。
仲君が言うには、黒河の北には「対野の都」があり、「潜英の石」が出るという。石は青色で、羽毛のように軽く、冬暖かく、夏涼しい。この石を用いて人の像を彫る。息はしないが声は出る。神に向かって人の考えを伝達することができる。石人をもって招魂し、李夫人はかならずやってくる。
漢武帝は百艘の楼船と千名の樹の上に乗って水上に浮かぶことのできる力士[古代官名;警備兵]を派遣した。董仲君はこれらを率いて石(の素材)を捜した。十年後、仲君は石を携えて漢朝に戻ってきた。すぐに李夫人の画を見せて石人を作らせた。絹の幕のなかで李夫人の魂を呼ぶと、石像は真人に変わった。
漢武帝は彼女の姿を忘れることができず、近づこうとしたが、仲君に阻止された。仲君は言った。「万乗の尊(天子のこと)がどうして精魅(妖精鬼怪)に惑わされるでしょうか。ましてこの石には毒があります。ただ遠くから眺めるのがいいのです。近づくことはできません」。
その後董仲君は従者に石像を木っ端みじんにさせた。これにより漢武帝は二度と思念の苦しみを味わうことはなくなった。葛洪『神仙伝』巻七に董仲君の事跡が記されている。「(仲君は)服気煉形をよくし、二百余歳にして老いていなかった」。こうして名立たる神仙として認められた。斉人少翁、のちに偽装が発覚し、武帝に死を賜った。『拾遺記』に載っているのは、考えるに、術を行った者が作り変えて名声を得た董仲君である。小説は続編に「潜英の石」を借りて亡霊を招き戻す場面を加える。その内容と原始時代の伝説はほぼ同じである。
「ただ眺めるだけがよろしい、接近することはできない」という禁忌の描写は、『漢書』に記される内容と完全に一致する。亡霊を近くで見る、あるいは接触するのは、たしかに返形術の大忌である。