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 南朝の宋孝武帝劉駿はこっそりと叔父劉義宣の女(むすめ)を妾にした。人の目をごまかすために、宮廷内に女性は殷(淫)であるという噂を流した。ゆえに殷淑儀と呼ばれた。淑儀の死後、劉駿はすっかりしょげ返り、まつりごとにはまったく興味を失せてしまった。

 亡霊を見ることができる(見せることができる)巫師がいた。劉駿はおおいに喜び、その法術を見せるよう頼んだ。巫師の準備が整い、帳(とばり)の中を見るとたしかに殷淑儀の姿がそこにあった。劉駿は彼女と話をしようとたが、相手は黙って何も答えない。彼女の手をひこうとすると、彼女は忽然と姿を消してしまった。この故事は少翁が李夫人をこの世によみがえらせた故事の翻案である。おなじでない点があるとすれば、巫師がいっそう大胆になっていることである。彼は殷淑儀を招き、さらに近づける。劉駿は妄想を抱くが、もう少しのところで巫師のトリックが見破られる。

 北朝の某少数民族の巫師はこれと似た法術を用いる。ただその手法はお粗末なものと言わざるを得ない。蠕蠕(ぜんぜん)族首領丑奴(ちゅうど)が王位を継いだあと、息子の祖恵が忽然と姿を消した。そのとき蠕蠕族に「是豆渾・地万」という若い巫女がいて、丑奴の信任を得ていた。

巫女は言う、「この子は今、天上におりまする。呼んでみようぞ」。

翌年の八月、地万は大きな沢に帳(とばり)を設置し、斎戒を七日おこなって天神に祈った。すると夜が明けると、祖恵は帳の中にいた。この子が言うには、しばらく天上にいたという。丑奴は民衆が集まったおりに地万に「聖女」の称号を与えた。

数年後、母親が大きくなった祖恵に、行方不明のときどこにいたのかと尋ねた。すると祖恵は答えた。「ぼくはずっと地万の家の中にいました。天上になんか行っておりませぬ。地万に天上に行ったと言えと命じられたのです」。

この発覚が紛争を誘発し、血なまぐさい弔い合戦にまでなり、そのなかで祖恵、地万、丑奴みなが命を落とすことになってしまった。

 地万の法術は漢代の少翁の方術とおなじではなかった。招いたのは霊魂や死者ではなく、行方不明になった子供だった。少翁の場合、亡霊の姿を「遠くから眺めることはできるが、近づいて触れ合うことはできなかった」。法術駆使し、露見しなかった。

一方地万が呼び戻したのは生きている人、とくに子どもだった。起こったことを話すまでに一日が経過している。これは地万の巫術の稚拙なところだろう。地万が天から人を招き(呼び戻し)、帳(とばり)を設け、斎戒し、神へ祈祷し、帳の中で人を取り戻すという段取りは、典型的な返形術に近かった。