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 白居易『長恨歌』や陳鴻『長恨歌伝』を読んだことのある人ならだれでも唐玄宗が術士に楊貴妃の招魂をした故事を知っている。巫術の角度から見ると、返形術の失敗例であるが。術士と唐玄宗が了解した目標は、少翁が招魂したのとおなじことを楊貴妃に関しても行おうとしたのである。

しかし結果として、術士が言うには、自身が海上の仙山で楊貴妃を見たというだけで、唐玄宗は何も見ることができなかったのである。ほかの野史(民間の史書)によれば、楊貴妃の魂を招返しようとした巫師の名は楊什伍(一説には陳)といい、広漢什邠(じゅうひん)の人である。小さい時に道士から檄召(げきしょう)の術を学んだ。これによって「鬼神を使い、たちどころに応えざるなし」だったという。

楊什伍がはじめて宮廷に参上したとき、唐玄宗が招鬼返形について問うたところ、楊什伍は肯定的に答えた。「天上地下、陰間、鬼神の中、これらすべての中に探してみましょう」。しかし三日にわたっていろんな法術を使って、九地の下、九天の上を、世の中すべてをあまねく探しても、楊貴妃の霊魂を見つけることはできなかった。

亡霊を探す手立てはもはやないと思われたが、楊什伍は最後に東海の蓬莱の頂に仙人が暮らす場所があり、そこで楊貴妃と出会ったという。そして開元年間の楊貴妃に関連した遺物とやらを提出して使命を全うした。

老いぼれた唐玄宗は証拠の遺物を見て、当初楊貴妃の霊を見るはずであったことをすっかり忘れ、道士を激賞した。「大師よ、おまえは天に昇り、地に入り、幽冥の世界に通じた、神仙のごとき道士である」と。唐玄宗は楊什伍に「通幽」という称号を下賜し、金銀、良田などの財物を賜った。


 唐代の一部の術士たちは伝統を重んじ、「招魂返形」のときの秦代以前の復礼や漢代の帳を設置し、ロウソクを燃やす方法を厳密に守った。唐人参寥子(さんりょうし)は小説に書いている。

長安の韋進士は、「返魂の術」を得意とする嵩山の任処士に死んだ愛妾の魂を招魂するよう頼んだ。任処士はよい季節の吉日を選び、家の中をきれいにして、香を焚き斎戒し、塀を立てて帳(とばり)を作った。最後に魂を導くために死者が着ていた衣服を用意した。

韋氏が亡き愛妾の遺留品である金の刺繡に縁どられた裙(スカート)を探し出すと、任処士はそれを見ながら言った。「これでそろいましたな。今日の招魂では閉め切って、部外者は立ち入らぬようにしてください。亡霊に近づいてはいけません。そして悲しんで泣かないようにしてください」。

 その晩、任処士は香火の前でロウソクに火をともすと、突然  長嘯(長くうそぶくこと)をはじめた。そして手に香裙を持ったまま、帳に向かって舞いだした。三嘯三揮(三度嘯し三度衣を振って舞う)のあと、帳の中から感嘆の声が聞こえると、赤い衣を着た女が走り出てくる。まなざしは斜めで、怒りをおさえきれないふうだ。韋は驚いて拝みはじめたが、任処士にすぐ引っ張り出された。

韋は霊と話そうとしたが、赤い衣の女は答えず、ただうなずいて意思を示すだけだった。それを見ているうちに任処士が決めた時間がいっぱいになってしまった。韋進士はタブーをものともせず、飛びかかろうとしたが、その結果、ロウソクは消えて、誰もいなくなってしまった。ただ強烈な神女の香気がいつまでも漂っていた。

任処士の三度長嘯し衣を振るのは、秦代以前の復礼とおなじである。知っておくべきことは、復礼は葬送前にかならず行うべき儀式だったが、すでに行われなくなっていた。ただこの種の招魂復魄の法術は術士の間に長く伝えられたのである。