(7)
宋代になって、招魂返形術によって富を求めようとする術士は少なくなかったが、成功した術士はごくわずかだった。
宋神宗のとき、姜術士は神宗が祖母の太皇太后曹氏の死を深く悲しんでいることを聞き知り、死者を復活させる神術の心得があると称し、宮廷に入って力を尽くした。姜は宮廷内で施術すること数十日、まったく何も成しえなかった。ただ調子よく言う。「わたしは太皇太后さまと仁宗が白玉の欄干にもたれてお酒を飲みながら花をめでておられるのを見ました。皇太后さまは人間世界に戻って来られることはないようです」。神宗はばかばかしいと思い、彼を都から追い出した。
宋徽宗のとき、「通真達霊先生」と呼ばれた林霊素が言うには、徽宗が寵愛した劉貴妃の臨終の際、異香(尊い香り)が漂い、流れる音楽が聞こえた。しかし亡魂を「招返」するようなことはなかった。翌年、「青坡(せいは)術士」と呼ばれる者が巫山で劉貴妃を見たと称した。
こうした類の話は楊什伍の欺く言葉と似たり寄ったりだが、亡霊の証拠を出さない以上、宋代の術士は楊什伍よりもレベルが低いと言わざるを得ない。
明清の時期、招魂返形は装いを変えて現れた。明崇禎甲申年間、呉江人薛君亮は嘉興に来ると、「少翁追魂の術」を大衆に見せた。
彼のやり方というのは、まず紙に死者の生年月日と命日を書く。密閉した家の中に壇を設け、檀に接するように机を置く。机の南に大鏡を吊るし、机の下に椅子を入れ、白紙を糊で貼って封じる。呪文を念じ、符を焚き、四十九日後、大鏡から煙霧が湧き出てくる。机の下から亡魂が昇ってきて、生きているがごとき容貌となる。[欧米の交霊会のエクトプラズムを想起する]
薛君亮は亡者の絵を描く。絵を描き終えると亡者はゆっくりと下降していく。当地では口々に言い伝えた。処刑された人の霊が現れ、その手には脳みそを下げていた、とか。出産時に死んだ女が全身血まみれで現れたとか、枚挙にいとまがない。