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Ⅱ 視鬼役鬼 

 視鬼術とは朦朧とした状態のなかで人に鬼神を見せることを意味する。それは鬼神を招くということではなく、人や人の霊魂を冥界に、あるいは仙境に招き入れるということである。

視鬼術の基本手法とは、巫術の霊物か迷酔性の薬物の使用である。人の乳に鷹の眼を入れてすりつぶし、夜間にこの混合液を目に滴り落とす。三日後、碧色の空に鬼神を見ることができるようになる。

フクロウの眼(の粉末)を服用するか、朝コウモリの血を目に滴らせるかで同様の効果が得られる。蛇の油を用いて灯をともし、水中に放てばさまざまな妖怪が発見されるだろう。

昼、ムカデ、蛇、サソリを甕の中に入れる。すると中で互いにかみ合い、毒虫が最後に残る。その血液から混合薬物が作られる。法術を求める者には、それで目を洗わせ、「妄見眩乱」(目がくらんで真実でないものが見えてしまうこと)を起こさせる。こういったことは等しく巫術である。上述の生き物たちは眼光が鋭利で狂暴であり、夜間も目が見え、その他神秘的な能力を有している。それゆえ人に視鬼能力を賦与できるとされる。

 巫術と薬法の間を埋めるのが視鬼術である。後漢『神農本草経』によると麻蕡を多く食べると、「鬼が見えて狂ったように走りだす」という。麻蕡とは大麻である。一部の学者の推測では、酒や大麻など幻覚性の薬物などを用いて神霊と交流する方法は有史以前から巫術の実践において使われてきた。商代の頃には巫師の常套手段になっていた。この状況と世界においてシャーマンが大麻などの力を借りて降神をするのとよく似ていた。巫師は自分が幻覚植物などを用いるとともに、ほかの人を「鬼視」の幻境に入れさせることもできた。

 方以智『物理小識』巻十二に言う、紫麻油を清水で溶いて服用すると、精魅(精怪)を見ることができるようになると。莨菪(ハシリドコロ)、雲実(カワラフジ)、防葵(ボウキ)、赤商陸(アカショウリク)、曼陀羅花などを服用すると「みな惑わせ、鬼を見させる」。曼陀羅花は古代においてもっとも用いられてきた。一般的にそれは蒙汗薬(モンゴル・ハーン薬)の主要成分とされる。唐人孟詵(もうしん)は言う、「鬼を見たい者は、生麻子、菖蒲、鬼臼などを細かくし、杵でついて弾の大きさに丸め、毎朝太陽のほうに向いて一粒服用する。満百日で鬼が見える」と。以上いわゆる「見鬼」「視精魅」とは中毒になって幻覚を見るようになったと理解できる。

 清代青陽庵の和尚は出家前に「人は死人の枕辺にある飯を盗み食いすることができる。左手で取ってすこしばかり食べるなら、他人に見られず、このあと七度、日中に鬼を見ることができる」と聞いたので、自ら試してみることにした。試したあと、いつでもどこでも鬼魂を見ないときはなかった。ついには「だんだんと嫌悪し、かつ恐れる」ようになり、たびたび狂人のようになってしまった。のちに瘋病は張真人が符水を用いて治すようになったが、それについては何も知らなかった。視鬼術の実践の価値がどのようなものであれ、類似した事例から答えがみつかるかもしれない。

 古代の道士は常々、練気、存思、明鏡掛けなどの方法で神霊と会うことができた。古い小説にも視鬼(鬼を見る)の能力を持った「高人」(精神的に超越している人)の記述は多い。彼らは清代末期の民間で、人を陰間(冥界)に導いて亡くなった親族と会わせる「走陽」「関亡」といった術を用いた。要するに視鬼術が荒唐無稽とばかりいえなくなったのには、それなりに理由があった。

 巫術を実践しているとき視鬼術と役鬼術を明確に分けるのはむつかしい。ただそれらを二つに分類するのに簡単な説明の仕方がある。役鬼術もまた古代巫師の基本技能の一つだった。その起源は秦代以前にさかのぼることができるだろう。漢代にはじまって役鬼術は発展し、桓譚は「鬼物を使う者」として五種の「天下神人」のひとりとみなされた。

 伝説によれば漢代のもっともすぐれた役鬼大師は後漢人の費長房である。長房は若い頃ひとりの老人の師のもとで学んだ。学び終えて師のもとを去るとき、彼は師から役鬼霊符をもらった。故郷の汝南に戻ったあと、彼はこの霊符を用いて病を治し、鬼を笞(むち)打ち、社神を駆使した。あるときひとりきりで誰もいないのに怒鳴っていることがあった。そのさまは毅然としていた。長房が言うには、今まさに法を犯した鬼魅を叱責していたという。

 汝南郡府門前には、長房が捕えたしばしば世を乱した鬼魅が囲われていた。法術を駆使してもとの鼈精(べつせい、すっぽんの精怪)の姿をとらせていた。長房は鼈精に命じて太守の面前に行かせ、謝罪させた。また信書を持たせ、葛陂の神「葛陂君」のもとへ行かせた。

 長房はまた葛陂君夫人を姦淫した「東海君」を、海浜を旱魃させることによって葛陂に拘禁した。最後はどうしてだかわからないが、費長房は役鬼霊符を失い、怒りを貯め込んでいた多くの鬼によって殺された。

 漢代以降、役使鬼を使う術は、ほとんど術士(呪術師)の基本的な方法とみなされていた。術士が「急急如律令」と口元でつぶやくのは、鬼神に速く行え、怠るな、と命じているのである。この呪文を念じる者は、役鬼法力を持っているかどうかでなく、実際に役使鬼神を使っているのである。

 費長房の術はすでにおのように威力があることが示され、帝王や大臣は自然とそのほうに惹かれ、夢中になった。北斉の薛栄宗は自ら使鬼であると称した。北周が北斉を攻めたとき、薛は斉の後主高緯は言った、「わたしはすでに名将律光(コクリツコウ)率いる大隊を送って(敵を)食い止めている」と。このとき律光が死んですでに多くの年月がたっていた。しかし高緯は薛の話を信じて疑わなかった。

 唐末に陣頭指揮を執った揚州の(名将)高駢(こうべん)は博識の方士だった。呂方士という者が丸太を切って三尺五寸の大きな足の模型を作った。長らく雨が降ってみぞれがはじめて降った夜、彼は足の模型を用いて、地面に大きな足跡をこしらえた。翌日呂方士は高駢に奏上した。「昨晩神人たちが地上で戦っていたので、私は陰兵たちを派遣し、江南まで連行していきました。すると広陵で洪水に遭い、神人たちは水没してしまいました」と。高駢はそれを聞いて二十斤の黄金を呂に賜ったという。