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西周以来、偶像呪詛術はますます盛んになった。伝説によれば周武王が商王朝を倒したあと、丁侯は朝廷に顔を見せなくなった。周大臣師尚父は丁侯の肖像画を描き、三十日間それをめがけて矢を射た。すると丁侯は大病に伏せた。丁侯は人(卜官)に占いをやらせて病気になった理由を探らせた。卜官の報告によれば祟りと禍は周朝から来るという。丁侯は恐怖を覚え、あわてて特別使者を武王のもとへ送った。周朝の統治に服従することを示すためである。
師尚父は甲乙の日に画像頭部の矢を抜き、丙丁の日に目の矢を抜き、戌己の日に腹部の矢を抜き、庚申の日に股の矢を抜き、壬癸の日に足の矢を抜き、ついに丁侯は治すことなく自ら癒えた。これにより、四方の各族はみな彼のことを畏敬に思い、順繰りに貢物を持ってきた。
この伝説は『六韜』『太公金櫃』に収録されている。臨沂(りんき)銀雀山漢墓から出土した『六韜』抄本の一部が前漢初期のものであるため、この書が成立したのは戦国時代と考えられる。師尚父が丁侯の像を矢で射たとする故事は、秦代以前の古い伝説なのだろう。細事に拘らなければ、この故事が西周初期の偶像呪詛術を反映しているのは疑いの余地がないだろう。
周代の貴族は弓矢の的に熊、虎、豹、麋鹿(シフゾウ)の皮を用いた。なかには布に動物の絵を描いたものもあった。こうした的は原始時代の狩猟巫術に源を発しているかもしれない。春秋時代後期の周霊王のとき、周大夫の萇弘(ちょうこう)はこの種の矢の放ち方をあらたに巫術に加えた。萇弘という巫師は気息(いき)がきわめて濃厚な政治家だった。『淮南子』「汎論訓」によれば、この人は「天地の気、日月の行、風雨の変、律暦(律法と暦法)の数、すべてに通じていた」という。
戦国時代の文献『呂氏春秋』「必己」『荘子』「外物」によると、萇弘の死後三年たってその血が碧玉となったという神話は、民間も萇弘が法術において超越的な神人とみなしていたことを示している。
周霊王が即位したあと、諸侯は朝廷に出なくなってしまった。萇弘はこの状況を変えようと、巫術を用いて、天子の威厳を回復した。彼はまず「狸(たぬき)の首」を描いた。これは朝廷に来ない諸侯を象徴したものである。射礼(弓矢の儀礼)に参加した人はみな狸の首に向かって矢を放つことになった。狸(たぬき)は「不来」とも言った。「狸」と「来」の古音は同じで、「不」は周人がつねに用いた「語首助詞」(語頭に来る助詞)だった。「不来」とはすなわち「狸」の変音だった。萇弘の巫術ロジックからすれば、狸(たぬき)を矢で射るとはすなわち「不来」を射るということであり、不来を射るとはすなわち朝廷に来ない諸侯を射るということだった。
この解釈を経て、狸(たぬき)を射るとは伝統的な射礼の熊侯・虎侯を射る(侯は的のこと)とは同じでなかった。その目的は二度と猛獣を征服しないということではなく、命令を聞かない人を抑制し、懲罰を与えることだった。萇弘が狸の頭を射るのと師尚父が丁侯の像を射るのとは、まったく同じである。区別できるとするなら、師尚父の攻撃対象はただひとりであり、その絵を描いて射ることができる。一方、萇弘が呪術の対象とするのは人々である。すなわち「諸侯のなかで来ない(不来の)者」であり、たくみに音を利用する者を除いて、つまり「不来」を象徴する人たちのほか、さらに適合する偶像を探す方法はないのである。
「狸首」は楽詩の名称でもある。諸侯が参加する天子主催の射礼のとき、狸首の楽の伴奏が必須となっていた。多くの古書が述べているように射礼のなかで祝辞を念じなければならなかった。
「嗟爾不寧侯、為爾不朝于王所、故亢而射女(汝)」
この祝辞はつぎのような意味である。「なんと嘆かわしいことか。あなたがた諸侯は分をわきまえていない! 朝廷に来ていない(不来)ため、今(あなたがたを的にして)射止めなければならない」
この句だけを見ると何を言おうとしているのかわかりづらいが、萇弘の「狸首を射る」を考え合わせると、つながりが見えてくる。清人の研究によると、この祝辞は散逸した詩編『狸首』の断片なのだという。
さらに一歩進めると、「亢而射女」も、もともと萇弘の「明鬼神事、設射狸首」のときの呪語だったと思われる。射狸首と関係があることから、詩歌整理者は「狸首」を表題とし、楽曲に配置して、射礼の伴奏曲の一つとなったのである。
『史記』「封禅書」に言う、「周人の怪しい物語は萇弘に始まる」。これは萇弘のあと、方術を用い、神怪を論じる人が増えたことを言っている。偶像祝詛術について述べているが、まさにその通りである。戦国時代に突出して見られた現象は、木偶土偶を利用して仇敵を攻撃する事例だった。宋康王は秦王の顔を思い浮かべながら木偶を作り、暇で何もすることがないときに矢でその顔を射た。また便所にたくさんの諸侯の塑像を置き、排便するごとに「その腕を折り、指先で鼻をはじいた」。
睡虎地秦簡『日書』「詰篇」には桃の枝を用いて邪悪なものや祟りを駆除することが何度も論じられている。また「故丘の土」を利用し、暇な人、暇な犬が鬼怪を退治することについても論じている。
「詰篇」はとくに鬼を制圧する方法について述べている。それと関連した典型的な偶像祝詛術は奇怪というほどのものではない。偶像を用いて鬼を除くのと、偶像を用いて人に呪いをかけることの間にはもともと関連があり、術士は仇敵を攻撃する必要があるとき、宋康王が土偶や木の枝を用いて相手に呪詛したのとおなじようなことをするだろう。