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漢代、とくに漢武帝のとき、「巫蠱」の偶像祝詛術が空前の流行を見せた。「巫蠱」には広狭二つの意味がある。広義においてはすべての巫術を指す。狭義には偶像祝詛術を指す。漢代人は一般的に狭義の「巫蠱」の概念を用いる。彼らの言う「蠱」は多くは人を呪うための偶像として用いる。その本来の意味の「毒虫」として用いることはない。たとえば『漢書』中の「掘蠱」は発掘した偶人のことを言う。
漢代の呪いの偶像はほとんどが桐木から作られている。『説文解字』には「偶、桐人なり」と書かれているほどだ。漢代の風習の代表な存在だろう。桐木から偶像を彫るのは、その木質が柔らかく彫刻を作るのに適しているからである。それだけでなく巫術意識から桐が選ばれるのだろう。
春秋時代以来、桐の棺桶はもっとも質が悪い棺材とみなされてきた。三寸桐棺[薄い棺桶の代名詞]で埋葬されるのは、懲罰による死者(処刑された者)だった。もっとも早い時期の木偶は、この観念と習俗の影響を受け、桐木から作られたものである。桐木偶は仇敵の化身か、仇敵の葬身の器(骨壺など)だった。言い換えるなら、攻撃対象は死んでも罪を償いきれないほどの悪人だった。
漢代の巫蠱術は相互に関連する三つの活動、すなわち埋偶人、祝詛、祭祀が含まれる。埋偶人は攻撃対象を(偶人にこめて)埋めて葬るもの。速やかな死をもたらすのが目的だ。祝詛は偶人にたいして呪文を唱え、ある種の願望を表明する。祭祀は、鬼神に祈り、その助けを借りて法術を成功させる。武帝陳皇后は巫女に「巫蠱、祀祭、祝詛」をひそかに行うよう要請した。公孫敬声[?~BC91 前漢の大臣]は「巫師に祭祀の際に呪いをかけさせ、甘泉殿へ行って道に偶像を埋めさせ、悪しき言葉で呪詛させよ」と言った。江充は巫蠱について調べ、駆除するために、あたり一面の「地面を掘り返して偶人を探させた」。あたりに酒をまき、地面を汚して祭祀が行われた証拠と偽り、無辜の人を捕えた。
『漢書』のこういった記載は巫蠱の術が、埋偶、祝詛、祭祀の融合したものであることを示している。祝詛と祭祀はそれだけで行うことが可能である。しかし埋偶、あるいは巫蠱は、祝祭と結合することが必須だった。漢代の文献では、巫蠱と祝詛は同義であり、入れ替えも可能だった。
『漢書』巻四十一「酈(れき)商伝」に言う、酈終根は「坐して巫蠱を誅す」と。同書の巻十六「高恵高后文功臣表」、巻十九下「百官公卿表」に言う、酈終根は祝詛によって誅されたと。巻三十四「韓王信伝」に言う、「坐して巫蠱を誅す」と。「功臣表」には「坐して祝詛し、腰斬する」と記される。巫蠱は祝詛を伴うものである。ゆえにこの二つは入れ替え可能である。「祝詛」という言葉が指す範囲は広く、「巫蠱」は「祝詛」のなかの特殊な例の一つにすぎない。