(4)

 武帝以前の漢代文献を見ると、巫蠱術の記述がきわめて少ないのがわかる。その希少な例としてつぎの話が載っている。漢景帝は郅都(しつと)を雁門太守に任じた。一方匈奴人は郅都を象徴する木人を彫った。騎兵たちに木偶に向かって矢を射らせるためである。一部の学者はこのことと、江充が「胡巫」を帯同して偶人を掘らせたことは関係があり、起因しているとして、漢代の巫蠱術が外国(匈奴)から来たと認識している。しかしこの説は信じるに足りない。

上述のごとく、武乙、宋康王はみな偶像を用いて祝詛術をおこない、秦代以前の射天、射画、射狸首は巫蠱と性質がおなじといえるだろう。中原地区には偶像を用いて祝詛術をおこなう伝統がもとからあるのだ。

つぎに、埋偶人の方法と春秋戦国時代にさかんになった葬俑の風習は直接的な関係がある。漢代人が言うには、春秋末期にすでに「桐は器として用いられることはない。俑(木偶)として使われた」という。呪詛に用いた桐の偶像と葬送の副葬として用いた桐の俑偶とは源が同一なのである。埋偶の方法は葬送の俑偶の風習のもと、伝統的な射偶法術から生まれたもので、匈奴とは無関係である。江充が胡巫を重用したのは彼が「視鬼」の能力を持っていたからである。視鬼と巫蠱はおなじことではない。胡巫が巫蠱に長じていると推論することはできないし、胡族(匈奴など)の間で巫蠱が流行しているとも言えない。さらには漢代の巫蠱が匈奴から来たとも言えない。

江充が胡巫を用いた大きな理由は、胡巫が漢語を理解しないことだった。江充が他人を貶めるために巫蠱の証拠を偽造したとしても、その秘密が暴露される恐れはなかった。そして政治的に関与し、打撃を与えることによって、武帝の時期は巫蠱が社会政治生活のなかで人の注目をひき、焦点となった。

漢代はじめには民間で巫蠱法術がはやらなかったので意味がなかった。ただ当時は社会に比較的争いが少なく、政局も穏やかで安定していた。巫蠱は政治とは直接には関係がなかった。社会の注目を集める問題ではなかったので、一貫して政治史を重視する古い歴史家の注意をひくことはなかった。

 漢武帝晩期、「群盗が起こり、城邑まで攻め、郡守を殺し、山谷に充満し、官吏は禁じることができなくなった」。秦末の政局の二の舞を演じそうな勢いだった。このとき武帝は六旬を経て怒りやすく、疑いやすかった。「左右みな蠱道祝詛をなす」。大規模な反巫蠱運動をはじめ、五、六万人が命を落とすことになった。これを巫蠱の禍と呼ぶ。

武帝元光五年(前130年)、かつて巫蠱の罪名で廃された陳皇后が、女巫楚服を市で梟首(さらし首)の刑に処した。この件で連座した三百人も誅殺した。天漢二年(前99年)、民間において巫覡が路上で祭祀をおこなうことを禁止した。この事件は巫蠱の禍の前奏であったと考えられている。